218.岩
離れようと思ったのに。
昨日のことを覚えていると言われて、このまま帰しては駄目だと思った。どうせ全部、自分を責めるための材料にするだろう。そうやってまた、俺から離れていくんだろう?
ただ一つの懸念は、がカカシと付き合っているかもしれないということだ。もしそうだとすれば、俺は人様の女にちょっかいをかけていることになる。それは筋を違えている気がして、気が咎めるのが正直なところだ。
付き合っていると言われたら、きっと想像以上にダメージはデカかっただろう。曖昧なままでいたい気持ちと、白黒つけたい気持ちの間で揺れ続けてきた。
だがは、反射のように「そんなわけない」と言った。その目を見たら、カカシを好きだと言った二年前の言葉も、全部嘘だということが分かった。俺の楽観視じゃない。の嘘が分かる程度には、この二年で少し冷静になれた。
額にそっとキスすれば、の顔は一瞬で耳まで真っ赤になった。初めて頬に口づけたときと、同じ顔だった。
あぁ、好きだ。
お前だって俺のことが、好きなんだろ?
嘘くらい、いくらでもつけばいい。
だがその嘘でお前自身が苦しくなるくらいなら、下手くそな嘘なんてつくな。
お前がどんなにふらついたって、全部受け止めるから。
俺以外に、それができる男がいるのかよ。
「帰り、寄っていい?」
昔のように軽く尋ねれば、はまた反射のように駄目だと言った。いいよと答えてくれたあの頃とは、やはりもうはっきりと違うのだと分かった。それでもいい。を取り囲む壁が厚いことなど、今に始まったことじゃない。
『誰よりも愛情深い一族がいる。その者たちが深く傷ついたとき、衝動が外に向かう者たちと、内に向かう者たちがいる。家の多くは、後者だ』
三代目の言葉を、思い出す。家は、誰よりも愛情深い者たち。
澪様も、そしてあの、の母親でさえも。
何が間違って、ああなってしまったんだろう。愛情深い一族ならば、なぜその愛が家族に向かなかったのだろう。
今のと同じように、若い頃に内に閉じこもってしまったんだろうか。それでも家族を持ってしまったために、愛を伝えられなかったんだろうか。
『どんなでも、そばにいることはできますから』
あのときの思いは、今も変わらない。
の心の傷が癒えなくとも、そばで支え、見守ることはできる。
俺に、そばにいさせてくれよ。
お前が何度離れていこうとしたって、離さねぇから。
は例の砂の抜け忍絡みで、しばらくアオバと偵察任務に出るという。長期になる見込みで、二人は今年の中忍試験の準備からは外れた。
第二試験の準備でコースを回っているとき、近くにいたアンコが躊躇いがちに俺に耳打ちした。
「ゲンマさんは……さんと、子どもの頃から親しいんですよね?」
何だ、藪から棒に。これまでアンコが、俺に私的な質問をしてきたことは一度もなかった。
「まぁな。幼なじみっつーか、腐れ縁だよ」
何気なく口にして、思わず笑ってしまった。腐れ縁。そうだ、俺たちの関係を示す言葉なんてないと思っていた。腐れ縁。これだ。何度離れようと思っても、結局は惹かれ合ってしまう。離れられない。きっとこの言葉以外に、表せない。
突然笑い出した俺を見てアンコは不思議そうな顔をしたが、すぐに表情を強張らせてあとを続けた。
「さんって、ああ見えて色々あったんだと思いますけど……実はすごく、頑固なんじゃないですか? ゲンマさんの言うこと、聞かないこともあるんじゃないですか?」
何なんだ、急に。そういえばあの夜、アンコとはかなり白熱した様子で何か口論していたな。
「と何かあったなら、本人に聞けよ」
「それは……はい」
アンコは大人しく引き下がったものの、全く納得していない顔だ。こいつも相当子どもだな。誰かさんにそっくりだよ。
「聞かないどころじゃねーよ。頑固も頑固。岩よりかてーよ」
「そ、そうなんですか。相当……大変じゃないですか?」
ほんとに、何なんだよ急に。咥えた千本の先をゆっくり揺らしながら、頭の中で少し考える。
それでも結局、答えなんか一つしかない。
「大変だよ。でも、そういうヤツだから。仕方ねーんだよ」
歩きながら話していたが、アンコの返事がない。足を止めて振り向くと、立ち止まったアンコはまるで眩しいものでも見るように目を細めて囁いた。
「ゲンマさんは、本当にさんのこと……」
「ゲンマでいい」
遮るように被せると、アンコは目を丸くした。俺は千本を軽く噛んでから口角を上げてみせた。
「同期だろ。ゲンマでいいしタメ口でいい。それより今の話、には言うなよ」
そう言いながら人差し指を軽く自分の唇に当てると、アンコは赤くなって小さく頷いた。
あの夜以来、アンコは少し変わったようだ。それまではどう見ても周りに興味はなかったし、誰も寄せ付けない冷たい空気感があった。アンコは大蛇丸の弟子だったし、奴が里抜けするまでかなり心酔していたらしい。内に閉じこもるのも、当然と言えば当然だ。
の抱える孤独が、アンコの中に潜む何かに触れたのかもしれない。
共に特別上忍になったあと、何度か呼び捨てでいいと言っても全く聞かなかったアンコが、その日初めて俺のことをゲンマと呼んではにかむような笑顔を見せた。