217.鞘


 ゲンマにはその日のうちに会えた。まだ例の怪我が治りきっていないから、しばらく内勤が続いているらしい。私も明日からアオバと田の国に行かなければならないし、その前に会えて良かった。
 護衛部から頼まれていた解析結果を持って訪ねると、事務室にいたのはゲンマ一人だった。

 私はやっぱりどこか緊張してしまったのに、ゲンマは顔色一つ変えなかった。ゲンマは昨日のことなんか、なかったことにしようとしてるんだってことがそのときはっきりと分かった。

 このまま、曖昧にすることだってできる。でも、ゲンマの背中の温もりも、首の匂いも、潤んだ眼差しも、抱きしめてくれた腕も、絡めた指も全部、忘れられそうにない。

 忘れられないなら、全部抱えたまま、持っていく。
 これで、終わりにしなきゃ。

「ゲンマ、昨日……ごめんね」

 渡した解析結果に目を通し、また封筒に仕舞ったゲンマが動きを止めた。手元に視線を注いだまま、静かに言ってくる。

「何の話だ」
「ゲンマ、私……覚えてるよ、昨日のこと」

 忘れた振りをするほうがお互いのためなのかもしれない。分からない。昨夜のことはもう消せない。どうすればいいか、分からない。

「ごめんね、私、迷惑かけてばっかりで。もう、お酒は飲まないから。ゲンマは優しいから、放っとけないもんね……ごめんね、もう迷惑かけないよ。ありがと」

 ゲンマは俯いたまま、視線も上げない。答え、にくいよね。本当に、何やってるんだろ。

 踵を返そうとした私の左手を、ゲンマが無造作に掴んだ。心臓が跳ね上がった。

「何で……素面のときは、そうなんだよ」

 ゲンマは絞り出すようにそう漏らしてから、勢いよく立ち上がった。ビクリとして顔を上げると、ゲンマの険しい表情が私を見下ろしていた。怒りと悲しみが、綯い交ぜになった顔だ。

「酔ってあんなに甘えるくらいなら、普段から甘えろよ。何で素面だとそうやってすぐ突き放すんだよ。酒がねぇと甘えらんねぇなら、俺の前でだけ飲んでろ」

 身体中に熱がこもって、頭が沸き立ちそうになる。何も言えない私の手を引いて、ゲンマは私の背をきつく抱き寄せた。
 ハッと我に返って発した声は、情けなく震えてしまった。

「ゲンマ、やだ、誰か来たら……」
「夜まで誰も戻ってこねぇ」
「そ、そんなの分かんない……」

 慌てて首を振っても、大柄なゲンマの力に敵うはずがない。ベスト越しに感じるゲンマの鼓動も、私と同じくらい速まっている。
 どうしていいか分からず縮こまる私に、ゲンマは落ち着いた――でもどこか熱っぽい声音で囁いた。

「俺の気持ちは変わってない。お前が他の男を好きだって言ったって、俺はお前が好きだ。お前が求めてくれるならいつだって応える。でもこれだけは教えてほしい。カカシと……付き合ってるのか?」
「そ、そんなわけ……」

 反射的に切り返して、しまったと思った。付き合ってることにすればよかったのか。でもそれじゃ、結局カカシに迷惑をかける。私の片思い。元々そういう筋書きだった。でも今はそれを口にすることさえも、罪悪感でいっぱいになる。これ以上、カカシを利用していいんだろうか。
 いいわけない。ゲンマの気持ちを受け入れられないのは、私自身の問題だ。

 私、ほんとに何やってるんだろ。

 私を抱きしめるゲンマの腕から、ほんの少し力が抜けたような気がした。その瞬間、申し訳なさでいっぱいになった。私、またゲンマに期待させるようなこと言ってるんじゃないかな。
 これで終わりにしなきゃって、思ったところなのに。

 ゲンマがそのまま少し身体を離したから、顔を上げようとしたら不意に額に温かいものが触れた。
 ゲンマがほんの一瞬だけ、私のおでこにキスをした。

 全身の体温が跳ね上がって、思わず上擦った声が出た。

「ばっ……!!」
「馬鹿で結構」

 私を見下ろすゲンマが、そう言って少し困ったように微笑む。その笑い方に、心臓がぎゅっとなった。子どもの頃からずっとそばで見守ってくれた、大好きなゲンマ。
 私の気持ちが変わっても、ゲンマの気持ちが変わっても、きっとお互いを想う心は昔から変わってない。それがありありと分かるから、苦しくてたまらなくなる。

「俺は、お前のことがずっと大好きだ。お前の気持ちが変わっても、俺の気持ちは変わらない。迷惑かけるとか振り回してるとか、そんなことはとっくに織り込み済みだから言い訳にすんな。それでもお前が好きなんだ。全部、俺が選んで好きでやってることなんだよ。だから、他の男が好きになったとかしょうもない嘘つくな。俺に嘘なんか、つくな」

 声が出なかった。ゲンマの真剣な眼差しが、私の胸にまっすぐ届いた。嘘なんかついてないって、言えなかった。ゲンマに嘘なんか、つけるわけなかった。ずっと好きだなんて、そんな先のことまで簡単に言わないでとも言えなかった。だってゲンマは、そういう人だから。簡単に言ってるわけがないから。
 私はただ、ゲンマもカカシも、無駄に傷つけただけ。

 本当に、最低だ。

 ゲンマにそっと目尻をなぞられて、私は自分が泣いていることに気づいた。

「ば、ばか……ゲンマが変なこと言うから……」
「何が変だよ。俺は昔から同じことしか言ってねぇだろ」
「そっ! それは、そうだけど……仕事中……」
「だってお前、明日から長期任務なんだろ? 今話しとかねぇと、次会えるまでにしょうもないことあれこれ考えるだろ。また俺に迷惑かけたとか」
「………」

 バレてる。全部、バレてる。

 ゲンマに隠し事なんか、できるはずなかったんだ。それなのに、すぐバレる嘘ついて、ゲンマもカカシも傷つけた。

 私、どうしたらいいんだろう。ゲンマからずっと、逃げ切れない。

 ゲンマが小さく笑って、子どもにするみたいに私の頭をぽんぽんと叩いた。何だか懐かしくて、余計に涙が出た。

「もうちょい、泣いてから戻るか?」
「……またアオバにネチネチ言われる」
「どうせ言われるならもうちょっといろよ」
「……他人事だと思って」
「俺も怒られに行ってやろうか?」
「やめて! 絶対、やめて!」

 アオバからいじられる材料を提供しないでほしい。私は急いで涙を拭いて、ゲンマの腕の中でゆっくりと深呼吸を繰り返した。赤い目で戻ったら、絶対アオバに大声でいじられる。

 あぁ、やっぱり好きだな。ゲンマのそばは、安心する。帰ってきたなって感じられる。
 それなのに、カカシたちの顔が目に焼きついて離れない。私だけ、どうやって幸せになればいいっていうの?

 不意に思い出されたのは、旅立つ自来也さんが私に言い残した言葉だ。良い女の条件は、素直なこと。
 だったら私は、良い女になんかなれない。母さんだってきっと、その条件には当てはまらなかったはずだ。

 ゲンマのことが好き。大好き。そのたった一言が、私には言えない。

 子どもの頃はあんなに無邪気に、大好きと言って飛びつけていたのに。

 それなのに何度離れようとしたって、結局こうしてゲンマのそばに戻ってしまう。もしかしたらずっと、死ぬまでこんな関係を続けるのかな。
 好きさえ言えない私のそばに、ゲンマはずっといてくれるの?

 それに甘えてて、いいの?

「帰り、寄っていい?」

 ようやく護衛部を出る頃、後ろからゲンマが声をかけてきて私は思わず声を荒げた。

「ダメ!」

 ゲンマはそんな私を咎めるでもなく、小さく笑って肩をすくめる。

「分かったよ。明日、気をつけて行ってこいよ」
「……うん」

 いつまでこうやって、甘えてしまうんだろう。

 情報部に戻ると、案の定アオバから帰りが遅いことをネチネチ指摘された。ゲンマとのことを誤魔化すように弁解が早口になってしまって、かえって怪しまれた。最悪。

 捨てたいのに、捨てられない。シスイはあれから、どうしたんだろう。やっぱり好きな人のことは、諦めてるのかな。
 私みたいにフラフラ、してないよね。

 しばらく会えていない友人のことを思い浮かべながら、その日はまっすぐ帰路についた。