215.指先


 サクが呼びに来たことを盾にして、カカシと付き合っているかもしれないを俺はまた家まで連れて帰った。川原からしばらくは肩を貸したが、やはり歩きにくい上に、今は脇腹に傷もある。途中からおんぶに切り替えて、背にの温もりを感じながらゆっくりと歩いた。本当はずっとこのまま、離したくなかった。

「酒臭いにゃ」
「お前……見てたならそもそも止めろよ」
「ボクの知ったこっちゃないにゃ」

 頭の上に載ったサクが、尻尾で俺の顔を叩きながら軽い調子で言った。俺だって二人のやり取りをしばらく眺めていた。恐らく一触即発という場面もあったものの、遠目には何を話しているか分からなかったし、俺が口を出すことでもない。
 やがて二人は、川辺に腰を下ろして何かを食べ始めたようだった。アンコの表情がやっと少し緩んで、下手に出ていかなくて良かったと安堵した。

 は、人の痛みが分かるやつだ。人一倍繊細で、心に深い傷を負っているからこそ、誰かの痛みに気づいて寄り添うことができる。時にそれが、強すぎる刃になることもある。そのことに気づいて、自分自身にまた傷ついてしまう。とても繊細で、とても不器用なやつだ。

 そんなが他の男を好きになったからって、放っとけるわけないんだよ。
 何年、一緒にいたと思ってんだ。

 サクがまた玄関の鍵を開けてくれ、俺とは家の中に入る。目を閉じたって歩けるほど、幼い頃からよく知っている家だ。今は、がたった一人で暮らす場所。サクたちがいるとしても、いつも一緒というわけではないだろう。

 まっすぐの部屋に向かい、をおぶったままベッドの縁に腰かける。の家も、もちろんこの部屋も、慣れ親しんだ匂いでいっぱいだ。愛おしくて、狂おしくて、たまらなくなる。

 離れたくないが、このまま朝まで過ごすわけにはいかない。背中のをベッドに下ろそうと少し体勢を崩したら、俺の首に巻きつく腕に突然力が入った。

? 起きてんのか?」
「んー……」

 まともな返事はない。まだ寝ぼけてんな。

、部屋着いたから。降りろ」
「んー……やだぁ」

 やだじゃねぇよ。俺だって嫌だよ。
 このまま朝まで一緒にいていいなら、俺だっていてぇよ。
 酔いが覚めたとき、後悔すんのはお前だろうが。

……さっさと降りて、寝ろ」
「やだってば……」

 子どもみたいな声を出して、俺の首にしがみついて、耳元に顔を擦りつけてくる。
 いい加減にしろよ。酔ってりゃ誰にでもこんなことすんのかよ。
 そう思ってねぇと、止まれなくなるだろうが。

、お前、いい加減に……」

 少し語気を強めながら振り返ると、すぐ横にあるの潤んだ瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
 思わず、言葉を失った。

「ゲンマ……」

 囁くように名前を呼ばれて、鳥肌が立った。幼なじみが、俺の名前を呼んだだけだ。たったそれだけのことで、どうしてこんなにも身体が熱くなるんだ。
 どうしようもないくらい、欲しくてたまらなくなった。

「お前が好きなのは……俺じゃないんだろ」

 のぼうっとした眼差しが、その瞬間に強張るのが分かった。俺は即座に目を逸らし、脇に抱えたの脚をそっと布団に下ろす。
 はほんの一瞬抵抗したものの、おとなしく俺の首から手を離した。

 泣きそうな顔で目を伏せるに、胸が苦しくなる。他の男が好きになったと言ってお前から離れていったくせに、そんな顔するなんて、ズルいだろ。
 俺はいつだって、お前と生きる準備はできてるんだよ。

 布団の上にぺたりと座り込んだが、俯いて黙り込む。そのまま立ち上がろうとした俺の手を、は両手できつく掴んだ。
 身体中が火照って、胸が張り裂けそうだ。

……お前、酔ってんだよ。早く寝ろって」
「……いてくれないと、寝れない」

 俯いたまま、が消え入りそうな声で言ってくる。本気にしたら、駄目だ。酔いが覚めたあと、が後悔するような真似だけはしたくない。
 それともここまで来たら、もう一度伝えたほうがいいんだろうか。好きだと。ずっとそばにいたいと。

 は酔っている。きっと今夜のことだって、明日になれば忘れるのに?
 どうせ忘れるなら、請われるままに朝までここで過ごしたっていいんじゃないか?

「今日だけ……だぞ」

 するとはまたあのときと同じように、ふにゃりと子どもみたいに笑って俺の胸に飛び込んできた。クソ、クソ、クソ。よくその口で、カカシが好きだなんて言えたな。
 それとも、カカシと喧嘩でもして――当てつけのように、俺に甘えているだけなんじゃないか?

 そうだとしても、もう知るか。俺はが好きだ。大好きだ。俺だけのものにしたい。結婚したい。家族になりたい。との子どもだって欲しい。全部俺の我儘で、全部俺の本心だ。
 酔っていると分かっていたって、惚れた女が一緒にいたいと甘えてきて、撥ね付けられるほど強くはない。

 しばらくきつく抱き合ってから、俺は少し身体を離して自分のベストを脱いだ。そしてあのときは触らずそのままにして寝かせたのベストに、そっと手をかける。
 俺がファスナーを下ろしても、は抵抗しなかった。

 二人分のベストと額当てをヘッドボードにかけ、の身体を布団の上にゆっくりと横たえる。自分も並んで横になりながら、の顔を覗き込む。はどうやら無邪気に笑って、俺の首元に額を擦り寄せてきた。
 少し甘いアルコールと、の無防備な香りと。

 一滴も飲んでいないはずなのに、思考が少しずつ溶けていく。の頭を抱いて、その髪に何度も何度も口づけた。

 俺が四代目のことで塞ぎ込んでいるとき、子どものように駄々をこねる俺のそばに、は朝まで寄り添ってくれた。
 同じことを、返すだけだ。今夜だけだから。

 あのときも確か、今夜だけだと誓ったはずだった。

(クソ……何なんだよ、この状況)

 と最後に恋人の真似事をしてから、二年以上が過ぎた。口紅を塗ってやった唇に何度もキスして、二度目のプロポーズをして。
 はあのとき答えなかった。それでも良かった。そばにいられるだけでもよかったし、がもしいつか家族を持ってもいいと思える日が来たら、そのとき思い出してもらえれば充分だ。は俺の腕の中で泣いていた。

 俺たちの関係がおかしくなったのは、それからしばらく経ったあとだ。コハル様がの結婚のことで俺に働きかけていることを知ったが、俺を避けるようになった。どうせ、迷惑をかけたくないとでも思ったんだろう。そんなことよりのそばにいられることのほうが俺にとっては大切だったのに、は俺の手を拒んだ。
 カカシのことが好きになったからと。

 今でも、あれは俺を遠ざけるための嘘だったんじゃないかという思いと、やはりはカカシが好きなんじゃないかという疑念の間で揺れている。

 それなのには、時々昔のような熱い視線を俺に向けてくる。酒を飲めば俺の名前を呼んで、こうして昔のように甘えてくる。これでカカシが好きなんて、どうやって信じろってんだよ。お前がそんなに軽い女だなんて、思ってねぇよ。

 俺の首元に顔をうずめるが、次第に動かなくなる。眠ったのかもしれない。この状況で、よく眠れるな。俺はやはりまだどこかで、幼なじみの兄貴分だと思われているのかもしれない。

 そういえばアカデミーの頃、一緒にいてほしいと言うから、が眠るまでここで手を握ってやったことがあったな。
 不意に昔のことを思い出して、の頭に添えていた手を、そっと下に滑らせていく。そのまま彼女の右手を控えめに包み込むと、しばらくしての指がゆっくりと動いた。

 心臓が止まるかと思った。の細い指が、躊躇いがちに少しずつ俺の指を絡め取っていった。まるで、行かないでとでも甘えるかのように。

 伏せられたの表情は見えない。眠っているかのように黙り込んでいるのに、その指使いがそうではないことをはっきりと示している。は酔っている。酔っていることは確かだが、今ここに、意識はある。
 の親指が、俺の指をゆっくりとなぞっていく。その繊細な仕草に、思わず息が漏れた。

「……

 熱い。身体中が、熱い。

 この状況で何もできないなんて、生殺しもいいところだ。俺でなければとっくに全てが変わっているだろう。
 だが俺は、これ以上踏み込むことができない。

 は、酔っているのだから。

 俺の呼びかけには答えず、は親指の動きを止めた。それから絡み合う指先に少しだけ力を込めて、また動かなくなった。本当に眠ったのか、眠った振りをしているのか。俺には分からないし、どちらでもいい話だ。今はただ、込み上げる熱情を鎮めることに集中するしかない。

 こんなことを続けていたら、駄目だ。

 今夜限りと決めたら、今夜限りだ。

 が俺の目を見て好きだと伝えてくれるまで、こんな関係はきっぱりやめなければならない。

 いつか、取り返しのつかないことになる前に。