214.三日月


 大福を食べ終えたあと、少しだけ飲んでみようかという気になった。

 十八歳になって半年ほど。飲み会を断っていることもあり、酒を飲んだことは一度もなかった。飲んでみたいとも思わなかった。ただ、目の前の仕事をこなすことに意識を集中していたから。目の前しか、見たくなかったから。
 先のことなんか、見たくなかった。

 音隠れの噂は聞いたことがあった。私だってあれから、何もせずにただぼんやりと過ごしていたわけじゃない。任務で里の外に出るときは、少しでも時間を見つけて情報収集をした。諜報活動は何も情報部の専売特許じゃない。私だって独自にずっと、奴の行方を追っていた。
 もちろん、あの自来也様にもたどれないとされる大蛇丸の足跡だ。そう簡単に発見できるなんて思っていない。それでも、何もせずにのうのうと生きてなんかいられなかった。

 私はあの夜、一度死んだのだから。

 それなのに、どうして。どうして、私に追わせてくれないんだ。私の身体には、奴の力の一部が取り込まれている。私なら、奴の痕跡をたどることができるのに。

 猫使いの存在は幼少期から知っていたけど、その歴史について初めて教えてくれたのは先生だった。六道の時代から続く旧家で、ほんの数代前まで忍びではなかった。初代火影に請われて木の葉にやって来た、巫女の血統。

 木の葉には、古くから続く忍びの名家がたくさんある。その中で、忍びとしてはほんの数十年前に始まったばかりの一族が、火影の右腕として里の中枢を牛耳っている。何だか面白くなかった。

「そうカッカしないのよ、アンコ」

 先生はそう言って、宥めすかすかのように笑った。

「私は嫌いじゃないけどね。蛇と猫って、似てるじゃない」
「どこがですか。全然似てませんよ」

 頬を膨らませて反発する私を見て、先生は静かに肩を揺らした。
 遠い、昔の話だ。

 四代目の時代になり、歴戦の猫使いが引退しても、その孫が火影の信任を得ているという。特別強いわけでもない。確かに諜報には秀でているかもしれないが、だからといって重宝されるほどの器か。所詮、七光りだ。家族をみんな幼い頃に亡くした私と違って、環境に恵まれていただけだ。
 私は違う。評価は、自分の実力で勝ち取る。

「……あの人のこと、大好きだったんだね」

 知ったような口を利かれると、反吐が出る。あんたに何が分かる。信じた相手に裏切られた私の気持ちなんて、分かるわけない。
 それなのに。

「苦しいよね。息が、詰まりそうになるよね」

 あの日、呼吸の仕方を忘れてしまってから、ふとしたときに溺れそうになる。
 もしかしたら、この人も。

 へらへら能天気に笑っているように見える、この人にも。

 そう思えてしまいそうなほど、猫使いは悲しそうな顔で笑った。

 猫使いは私に梅酒を勧める傍ら、私も少しだけ飲もうかなと言って自分の紙コップにも半分ほど注いだ。
 初めての梅酒は想像以上に飲みやすくて、私は注がれた一杯をすぐに喉に流し込んでしまった。少し気持ちが大きくなって、二杯目を入れてもらうと、小瓶はあっという間に空になったようだった。もう少し、あっても良かったな。

 目を閉じれば、奴の顔が浮かんだ。左肩の呪印が痛んで、私はうめき声をごまかすように舌打ちしながらその場に背中から倒れ込む。鼻の奥が痛んで、涙が溢れそうになるのをすんでのところでこらえる。
 これは、憎しみだ。裏切られたことへの、失意だ。

『苦しいよね』

 苦しいのはきっと、それだけ恨んでいるからだ。
 大好きだったんだねなんて、そんな簡単な言葉で片付けてほしくない。

「先生は……私の、全てだった……」

 思わず漏らした言葉に、返事はなかった。川原に横たわったまま慌てて振り向くと、胡座をかいて目を閉じた猫使いが、ふらりとよろめきその場に崩れ落ちるところだった。それこそ、糸でも切れた人形のように。
 猫使いは私の傍らで仰向けになって静かに寝息を立て始めた。

「え……えっ? え、さん?」

 ついさっきまで、起きてたよね?
 こんなに急に、赤ん坊みたいに寝る?
 コップ半分も飲んでないわよね?

「な、何なのよ……」

 呆れ返って二の句が継げないけど、その寝顔を見ていたら、何だか肩の力が抜けて笑ってしまった。こんなところで、私なんかの前で、こんなに無防備に眠る。これで本当に、プロの諜報員だって言うなら、この里はどうかしている。
 どうか、している。

 こんなことで笑ってしまう私も、どうかしている。
 猫使いに腹を立てていたのは、本当に自分の感情だったんだろうか。
 私はもしかしたら、別の何かを見ていたのかもしれない。

「ったく、また……ほんとに、こいつは」

 そのとき不意に声がして、近づいてきたのは護衛部の不知火ゲンマだった。同時期に特別上忍になったし、中忍試験の準備で何度も一緒に仕事をしている。でも自然と、距離を取って過ごしていた。
 この人は猫使いの、恋人という噂のある人だ。

 ゲンマさんは咥えた千本を揺らしながら、呆れた様子でちらりとこちらを一瞥した。

「悪いな、アンコ。こいつが付き合わせたんだろ? 大丈夫だったか?」
「あ、その……私は大丈夫ですけど、さんが寝ちゃって……」
「こいつは自業自得だ。こうなることが分かってて飲むのが悪い。お前は? 帰れるか?」
「私は、何ともないので……」
「そうか。じゃあ、気をつけて帰れよ」

 ゲンマさんは軽くそう言って、慣れた手付きで猫使いの上半身を起こした。平和に眠る猫使いの腕を自分の首に回し、地面に転がった袋を回収してから徐ろに立ち上がる。一瞬つらそうに顔をしかめるのが見えたけど、猫使いに肩を貸したゲンマさんは淡々とした様子でこちらを振り返った。

「じゃあな、アンコ。また試験準備で」
「はい……」

 いつから、見られていたんだろう。
 ひょっとして、最初から全部見ていたんだろうか。
 私はさんに、明確な殺意さえ向けたのに。

 遠ざかる二人の背中を眺めていると、突然ゲンマさんの頭に忍猫が覆いかぶさって尻尾を揺らしてじゃれついていた。ゲンマさんが何か文句を言っているみたいだったけど、そのやり取りも慣れ親しんだ様子に見えた。
 あぁ、あれは噂じゃなくて、本当だったんだな。

 さんはきっと、外から見えるよりもずっと深いところに傷を負っている。
 それでも、ああやって何も言わずに迎えに来てくれる人がいる。

 羨ましいなと、素直に思えた。

「……梅酒、買って帰ろうかな」

 見上げた夜空に浮かぶ鋭い三日月も、今は少しだけ、柔らかな光を放っていた。