213.共鳴
はきっと今も、俺のことが好きだ。
脳天気な希望的観測だと自分を罵る声と、じゃああのときのあの顔は何なんだと突っ込みたくなる気持ちとの間で揺れる。
砂との会議後に襲撃されたときの傷は、一か月たった今もまだ痛む。しばらく軽度な任務のみを回してもらうことになり、内勤も増えた。落ち込んでいるつもりなどなかったのに、前衛なんだから仕方ないよとに肩を叩かれて、自分が思っていた以上に落ち込んでいることに気づいた。
が処置してくれたとき、後ろから抱きしめられる形になって正直任務どころではなかった。もちろん処置だ、任務の一環だ。俺でなくても誰にだって同じことをするだろう。が医療忍者でなくて良かった。あんなことが茶飯事なら、正気を保てるかどうか自信がない。二年ぶりに密着する身体に、意識を持っていかれそうになった。傷の痛みがなければ、恐らく耐えられなかった。
は包帯を巻く前、俺の火傷痕に気づいたようだった。あんなガキの頃に話したことを覚えていてくれたことも、労ってくれたことも、あまりに柔らかな手つきで触れてきたことも、その愛おしそうな眼差しも、全てが俺の感情を沸き立たせてもうこれ以上は無理だと思った。
これ以上触れられたら、まずい。
「……そろそろ戻らねぇと」
このままでいたいという未練と、これ以上ここにいては引き返せなくなるという理性と。俺が小さく声をかけると、はハッとした様子で顔を上げた。目が合って、ほんの数秒見つめ合って、の頬がみるみるうちに赤くなっていく。
あんな顔を見せられたら、まだ俺に気持ちがあるんじゃないかって、期待したって仕方ないだろ。
だが、とカカシの間に何かがあっただろうことはきっと、確実で。
あのときは、カカシの顔を見て赤面しながら口元を押さえていた。もしかしたら、キスくらい、したのかもしれない。二人が付き合っているという噂は聞いたことがないが、はともかくカカシなら、そんな噂が出回らないくらいの根回しはするだろう。二人が付き合っていないなんて、楽観的な考えだ。
それなのに、俺はあのときのの表情を忘れられない。
の気持ちがどうあれ、俺はのことが、好きだ。今もずっと。きっとこの先も、ずっと。
「浮かない顔にゃあ」
夜、アパートへの帰り道、突然声が聞こえて足を止めた。近くの塀にちょこんと座ったサクが、にやにや笑いながらこちらを見下ろしている。見透かされているようで、胸がざわついた。
「疲れてんだよ」
「軟弱者にゃ。を担ぐ元気くらいあるにゃ?」
「は?」
ドキリとしながら聞き返すと、サクは尻尾をゆらゆら揺らして路地の先を示した。
「あいつ、酒持ってあっち行ったにゃ。懲りないやつにゃ」
「酒? 差し入れとかじゃねぇの?」
「知らないにゃ。酔ったらあいつ、また帰れなくなるにゃ」
知ったこっちゃないが、とでも言わんばかりに大あくびをして、サクはそのまま塀の向こうに降りていった。
何だよ。投げるだけ投げて、回収せずに消えるなよ。まぁ、猫らしいといえばらしいが。
サクが尻尾で示した先を、チラリと見やる。の家の方向とは、違う。
俺が関わることじゃない。俺はの、ただの同僚だ。仮にがどこかで酔い潰れていたとしても、連れて帰るのは俺の役目じゃない。
脳裏に、カカシの顔がよぎった。
大きく息を吐いて、俺は咥えた千本をきつく噛み締める。
放っておけたら、楽なのにな。
自然と足が向いた先には、少し開けた川原がある。俺とが幼い頃からよく一緒に過ごした川より、もっと小さな小川だ。
川辺にたたずむ後ろ姿は二つ。の他にももう一人、俺の知っている女だった。
***
音隠れの里。その実態は謎に包まれている。田の国にあると言われているけど、その所在を知る者はいない。
ただ一つ、まことしやかに囁かれているのは、その設立に大蛇丸が関与しているということ。
アンコは大蛇丸の一番弟子だった。自分が引導を渡してやろうと考えるのは何ら不思議じゃない。
「アンコ。良かったら、一緒に飲まない?」
特別上忍で時々集まって飲むことがあるけど、アンコが顔を出すことはほとんどない。アンコは私たち特別上忍の同期の中で一番若いし、お酒が飲めないから仕方ないって空気だったけど、それだけが理由じゃないことなんてきっとみんな分かっている。そもそも飲めないってことなら、私だって飲めない。
アンコももう十八になったはずだし、少しくらいなら、いいだろう。
川辺にたたずむアンコの背中に声をかけると、彼女は殺気立った様子で、首だけで振り向いた。
「お酒は飲みません」
「そう? じゃあ大福でもどう? 塩豆大福」
「お酒と大福って……どういう組み合わせですか」
「意外と合うよ。まぁ私は大福のほうが好きだけどね」
さっき商店街に立ち寄って、梅酒の小瓶と大福を二つ買ってきた。アンコは呆れたようだったけど、すぐにこちらに背を向けてすげなく言ってきた。
「何の用ですか」
「あー……ちょっと話したくて」
「私は、話すことなんかありません」
呼び捨てでいいって言っても、タメ口でいいって言っても一向に聞いてくれないまま、何年も過ぎた。昔ばあちゃんと大蛇丸が揉めたことがあって、そのせいで私がアンコから嫌われているのかもと紅が推測してたけど、どうだったんだろう。まぁその件も、大蛇丸が人体実験なんて非人道的なことを進めようとしたために、ばあちゃんやヒルゼン様と衝突しただけってオチだったけど。それとも他に、何かあったのかな。
まぁ、きっかけなんて何でもいいか。私はアンコから嫌われてる。
アンコの物言わぬ背中に、言葉をかける。
「音の件は、私たちに任せて。時が来れば、ヒルゼン様だってあなたに任せたいことが出てくるはず。今回は――」
「時って、いつですか」
アンコの声は冷ややかだった。その言葉も、背中も、震える拳も、全てが私を拒絶している。
「何度も何度も何度も、私に行かせてくれと頼んできた。でもダメだった。私が復讐に取り憑かれてるって。私は、私の仕事をしたいだけ。奴を追えるのは、私だけだから」
「どうして?」
それは純粋な疑問だった。アンコはずっと、忍猫の第六感を信用できないとして、客観的な根拠を大切にしてきた。
アンコは震える手でまた左肩を押さえつけながら、吐き捨てるように言い放った。
「あなたには関係ない」
「……そう、だね」
その言葉は、私だって何度も何度も、大切な人に投げつけてきた言葉だ。
私のこんな背中を、ゲンマもずっと、見てきたのかな。
「……あの人のこと、大好きだったんだね」
そのとき目の色を変えたアンコの表情が見えて、次の瞬間には私の喉元に舌をちらつかせた蛇が迫っていた。ほとんど同時に、私の肩にサクが現れて低く唸り声をあげる。
小さく片手を上げて、私はサクを制した。
「あんたに……何が分かる。私のことも、あいつのことも何も知らないくせに」
腕を蛇と同化させる、アンコの口寄せの一種。迫っているのはアンコのほうなのに、彼女の形相はまるで手負いの獣だった。
不思議と、私の心は穏やかだった。
「そうだね。それなら、三代目はどう? あの人はあなたのことも、大蛇丸のことも、ひょっとしてあなたよりも知ってると思うけど。三代目の言葉なら、あなたは聞くの?」
すると、アンコは少し怯んだようだった。唇を引き結び、目線を落としながらも、震える声を絞り出す。
「三代目だって……私のことなんか、何も分かってない。私が、どんな思いで……」
「そうだね。分かるわけないね。話してないことを、分かってもらえるわけないよね」
淡々と告げる私の言葉に、アンコはまた険しい形相で顔を上げた。はぁ、痛いな。だって全部、自分に返ってくるんだもん。
私がこれまで、色んな人たちに言われてきたことだよな。
それでも、伝えたいと思ったんだ。
私は肩口のサクの顎を撫でながら、小さく苦笑いを漏らした。
「ごめんね。ほんとは、人に言えた義理じゃないんだけど。私が人から散々言われてきたこと。分かるわけないって人を撥ねつけるのは楽だよね。でも、苦しいよね。自分で自分の首を絞めてるようなもんだからね。苦しいよね。息が、詰まりそうになるよね」
アンコの鋭い瞳が、微かに揺れた気がした。それは私の目に、涙がにじんだせいかもしれない。泣く資格なんて、ないのにね。
視線を落として、小さくあとを続ける。
「分かるよなんて、言うつもりはないよ。でも、抱えてるのは苦しいよね。自分は一人だって思うよね。そういうときって、誰の言葉も聞けなくなっちゃう。今は、聞かなくてもいいから……独り言でもこうやって、吐き出せたらいいよね」
アンコはすっかり戦意を喪失したようだった。だらりと下げた腕から蛇は消えていて、俯き目元にかかる髪の毛が暗く影を落としている。
あくびを漏らすサクを肩に載せたまま、私は手元の紙袋を少し掲げてみせた。
「飲も。それとも甘いものにする? どっちが好き?」
「……甘いものです」
「いいよ。二個買ってきたけど、両方あげる。食べよ。じゃあ私はちょっとだけ飲もうかな」
「……いいですよ、一つで」
「ほんと? ありがと。じゃ、遠慮なく」
お酒を飲んで、また帰れなくなったら困る。飲むとしても、ほんの少しだけ。
ゲンマの顔――そしてカカシの顔が浮かんできて、私はそっと瞼を伏せた。
甘いものを口に運ぶアンコの横顔は、これまでに見たことのないくらい穏やかなものだった。