209.同類


 夢だったかもしれないと、何度も思った。

 でも、玄関の上がり口に転がった背中の冷たい感触を思い出したら、やっぱりあれは夢じゃなかったんじゃないかとその度に打ちのめされる。私もカカシも、きっと酔っていた。酔っていたからといって、あの夜の出来事をやり過ごせるわけじゃない。

 飲んだら自力で帰れなくなることが分かっていて、ガイに強引に勧められたとはいえ、飲んでしまった自分が悪い。カカシは私を家まで送り届けてくれたんだ。感謝こそすれ、恨むなんて筋違いだ。
 だからって。

 布越しとはいえ、唇に押しつけられた凹凸の感触が忘れられない。

 金縛りにでもあったみたいに動けない私を残し、カカシは黙って去っていった。冷たい床に横たわったまま、しばらく呆然と黒い天井を見つめる。

 やっとのことで身体を起こした私は、ふらつく頭を押さえながら洗面所に移動した。明かりをつけて鏡を覗き込むと、腫れ上がった虚ろな眼差しがこちらを見返していた。ひどい、顔。
 それなのに頬には赤みが差していて、私は自分自身に混乱した。違う。これは、お酒のせいだ。

 蛇口をひねり、水をすくって何度も何度も顔を洗った。それなのに頬の熱も、嗚咽と一緒に込み上げる涙も、まったく収まりそうになかった。

「……何なのよ」

 私が悪い。ゲンマを遠ざけるために、私はカカシの名前を利用した。それを知ったカカシが腹を立てるのは当たり前だ。お酒の勢いで、私に怒りをぶつけたって仕方ない。

 仕方ない?

 怒っているなら、もっと別の表現の仕方があるだろう。掴みかかられれば、いくらでも詫びたのに。
 そんなの、私の都合だ。カカシが腹を立てて、カカシがカカシなりに怒りを表しただけ。そのやり方に傷ついたからって、私に抗議できる権利なんかない。私だって、カカシを傷つけたんだ。

 私、本当に最低だ。

 好きな人も、大事な仲間も傷つけて。

 大事な、仲間?

 もう、分からなくなっちゃった。

 カカシの顔を思い出したら、息が苦しくなってまた頬に熱がこもってきた。やだ、何で。
 何度顔を洗っても、消えない。消えそうにない。

 脳裏にゲンマの顔が浮かんで、胸がきつく痛んだ。

 ゲンマはただの、同僚だ。関係ない。

 関係ない、のに。

「……もう、やだよ」

 カカシもゲンマも、関係ないのに。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、ただ、息苦しいだけ。


***


 カカシと顔を合わせることは元からほとんどなかったけど、時々里で見かけるようになって、私のほうが気まずくて逃げることが増えた。

 この数年、絶対に意図的に私のことを避けていたくせに、もう避けるのをやめたみたいだ。嫌がらせかというくらい、普通に里で見かけるようになった。
 でも、別に話しかけてくるでも、笑いかけてくるでもない。知らない人みたいに、ただ通り過ぎるだけ。ただ、姿が目に入るだけ。

 まるで、私たちの間に何もなかったみたいに。

 夢だったのかもしれない。もう、分からなくなっちゃった。

 でも夢だったと断言するにはあまりに感覚がリアルすぎて、私はゲンマの顔を見る度に、気まずさで喉の奥が詰まるようになった。
 ゲンマと私は、付き合ってるわけじゃない。別に後ろめたく思う必要なんかない。それなのに、ゲンマの顔を見るのがつらくて、気づいたら目を逸らすようになっていた。

 シスイはここのところ忙しいみたいで、いつもの川原に行っても全然会えなかった。

「イタチ、帰ってたの?」

 去年の暮れ、シスイから紹介された親友というのは、フガクさんの息子のイタチだった。イタチと知り合ったのはやはりこの川原だったけど、彼のことは二年前の中忍試験のときから知っている。イタチは当時、十歳だった。

 シスイによく似た目元の陰が、イタチの横顔もひどく大人びたものに見せている。イタチは去年から、暗部に所属しているという話だ。

 でも、ふとしたときに見せる澄んだ眼差しが、彼の純粋さをそのまま映し出しているような気がした。

「はい。今朝戻ってきました、さん」
でいいってば。シスイみたいにさ」

 イタチはシスイより三つ年下だ。私からすれば八つ下。シスイは友人だけど、イタチはまるで弟のような感覚だった。もちろん実力からすれば、イタチのほうが圧倒的に上なんだけど。彼はすごく礼儀正しくて、素直。
 そしてシスイと同じくらい、世界の平和を望んでいる。

 戦争が終わったときイタチはまだ六歳足らずで、戦場は知らないはずなのに。

 シスイから聞いた話だが、フガクさんが幼いイタチを戦場に連れて行ったことがあるらしい。あまりにショッキングな教育方法だと思った。でも、それが正しいか間違っているかなんて、誰にも分からない。すでに起きてしまった戦争なら、それを知ることで二度と繰り返さないための手段を見出だせるかもしれない。

 幼くして戦場を知ってもなお、折れずに突き進むことのできるイタチは本当に強い忍びだ。

「いえ、さんは特別上忍ですから……」
「関係ないってば。イタチはどうせすぐに上忍になるだろうしさ。シスイやイクチみたいに、もっと肩の力抜いていいんだよ」

 シスイと同じように刀を掛ける少し小さな背中を、ポンと軽く叩く。イタチだってきっと、二年もしないうちにすぐ大きくなるだろう。男の子は、みんなそうだ。

「何でも話してね。私はイタチみたいに強くはないけど、話くらいなら聞けるから。うちはとかとか、関係ないよ。これからのうちはは、イタチやシスイや、サスケみたいな若い世代が背負っていくんだから。私にやれることなら、何でもするよ」

 イタチは私の言葉を聞いたあと、何かを口にしようとしたようだった。少し唇を開いて、それから思い直したように引き結び、穏やかに笑ってみせた。

「はい。ありがとうございます、さん」

 きっとイタチは、私には何も話さない。でも、何かあったときに少しでも思い出してもらえるように、声をかけ続けることはできる。
 きっとイタチも、ひとりで抱え込んでしまうタイプだから。

 イタチとカカシは、よく似ている。私も二人に、きっと似ている。
 私たちは、似た者同士だ。

 だから、あんな形で怒りをぶつけられたって、カカシを切り捨てることはできない。
 どういう顔をして向き合えばいいのか、分からないとしても。

「……馬鹿じゃないの」

 一人きりの家に帰って、ぽつりと漏らす。

 縁側の座布団に丸くなったサクは、耳さえ動かさずに眠り続けていた。