208.反射


 夢、かと思った。

 ついさっきまで、ゲンマの夢を見ていたのに?

 思い出したら顔が熱くなるのに、目の前にいるのはゲンマじゃない。

 冷たい床に仰向けに転がった私に覆い被さるのは、どう見てもカカシだった。暗くてもそれくらい分かるし、きっとカカシにだって見えてる。
 掴まれた手首が痛むけど、ゲンマに痣をつけられたときほどじゃ、ない。

 何で、こんなことになってるの。
 ここ、どこ?
 私、何してたっけ?

 思考がまとまらない。頭がぼんやりしていて、視界の端が少しにじんで見える。
 お酒を飲んで温かくなっていたはずの身体が、今は妙に冷えているように感じた。それなのに、顔だけが火照る。

「カ、カカシ……?」
「お目覚めか?」

 カカシの声は低く、冷たかった。それなのに、不意に手首にかかる力が強まって近づいてきた顔は、暗闇でも分かるくらいはっきりと熱を帯びていた。
 においからして、多分ここは、うちの玄関だ。

「……な、何やってんの」
「さぁな。何だと思う」

 おかしい。こんなカカシ、知らない。
 ひょっとして、やっぱり夢なんじゃ。
 だって私の知っているカカシは、いつも私に背を向けて逃げ回っていたじゃないか。

 そのとき不意に、昔のことを思い出した。カカシは私を避けてたんじゃない。へたくそって言いながら、よく私の修行姿を覗いていた。幼い、子どもの頃の話だ。

 そのことを思い出したら、懐かしいにおいが香った気がした。

「カ、カカシ……」

 名前を呼ぶ声が、少し震える。カカシはもう子どもじゃない。私よりずっと大きな男の人になっていて、こうして覆いかぶさって手首を押さえつけられたら、怖くて身体が強張る。それなのにどこか儚くも見えて、闇にうっすら反射する隻眼が苦しそうに細められた気がした。

 夢なのか、現実なのかも分からない。それでも暗闇に慣れてきた私の目に映るその眼差しは、やっぱり私の知っているカカシかもしれないと思った。

「カカシ……どうしたの?」

 そのとき、カカシが口布の奥で息を呑むのが分かった。
 それからゆっくりと彼の顔が近づいてきて、私はぎょっと目を見開いた。これ、まさか。

「ちょ、カカシ、待って……!!」

 ふわふわしたお酒の余韻なんてとっくの昔に消えている。頭から冷水でも浴びせられたように目が覚めて何とか逃れようとするけど、手首をきつく拘束されていて振り解けない。
 何、何なの。酔ってるの?

「や、やだ、カカシ……やめて……」
「なんで」

 さも当然のように切り返すカカシに、唖然とする。やっぱり、酔ってるんだ。だっておかしいじゃん。正気のカカシが私に、こんなことするわけない。
 でも私の顔を至近距離で覗き込むカカシの冷え切った声が、背筋をざわりと撫でた。

「俺のことが、好きなんだろ」

 何を言われているか、分からなかった。目の前のカカシの鋭い瞳と黙って見つめ合って、ようやく思い当たった私は小さく声をあげた。
 まさか――ゲンマとの話、聞かれてた?

 カカシのことが好きだなんて、あのときしか口にしてない。

「カカシ、ごめん、あれは、その……」
「お前が謝る必要はない」

 私の言葉を遮るカカシの声は、冷たい。手首を掴む指先に、荒々しく力がこもる。
 あのときゲンマだって、痛いくらい私の手を強く掴んだ。でもゲンマの瞳は、いつだって優しく私を見つめてくれた。

 カカシの暗い眼差しが、彼は変わっていないことをありありと示している。

 カカシはずっと、ひとりなんだ。

 私と同じだ。

「カカシ――」

 もう一度彼の名前を呼んだ瞬間、唇が重くなった。

 口布越しに触れられたところから、全身に震えが走るのが分かった。


***


 の様子が、おかしい。

 こっぴどく振られてから一年ほどが過ぎた。十九歳のの誕生日には何も言えなかったし、二十三歳の俺の誕生日にも何も言ってはくれなかった。一度親父に「お前、結婚は?」と聞かれたので「できるならしてる」と答えたら、それから親父は何も言わなくなった。俺がを好きなんてことは、両親だってとっくに分かっているはずだ。

 コハル様には未だに時々チクチク言われる。お前がはっきりしないからが子どもを産まないなんて言い出した、と。率直に言って、お門違いだ。俺の気持ちは何度も伝えてある。子どもなんて望まなくていい。そばにいられるだけでいい。それともそれが、かえってに負担をかけたんだろうか。俺の子どもを産んでくれと言ったほうが良かったんだろうか。

 いや、関係ない。は家族を持つことを恐れている。どうせ壊れる。またひとりになる。子どもを産んだら自分と同じ思いをする。頑なにそう信じ込んで、俺のことだって遠ざけた。迷惑をかけたくないと。
 正直、悲しいし寂しい。だが俺なんか比べ物にならないほど、はずっと悲しかったし寂しかった。それを分かっているから、分かってはもらえないと見限ることはできない。

 もう、愛してしまったのだから。

 が俺から離れていっても、幸せになってくれるならそれでいい。だが、は好きな男がいても結婚はしないと言う。それが仮にカカシだとして、それでもひとりになろうとするを、放っておくことはできない。
 たとえ触れることはできなくても、そばで見守ることはできる。

 見守ることしか、できない。

 放っておけばあいつは、すぐにひとりになろうとするから。

 結婚が全てだなんて思っていないし、が幸せになるのならそれでいい。笑って心穏やかに過ごせるのなら、何でもいい。
 ――の隣は、俺がいい。その狭間で、いつも揺れている。

 とは、仕事で時々一緒になる。同じ本部勤務だし、仕事柄、同じ任務に就くこともある。お互いプロだし、仕事に支障をきたすことはない。周りの連中も、茶化してくることは少なくなった。

 俺たちはプロだ。どれだけ俺がのことが好きでも、が俺を避けたくとも、仕事に支障をきたすことはない。

 だが、ふとしたときに目が合うと、はよく口元を押さえながら逃げるように顔を逸らした。その仕草に、は俺が見境なくキスするとでも思ってるんだろうかと、少なからず傷ついた。
 それとも、それだけにとって俺とのキスがトラウマなんだろうか。は俺のことなんて、本当に嫌いになったんだろうか。

 極めつけは、ガイに誘われた飲み会だった。たまたまとガイが一緒に組む任務があったらしい。本部で遭遇したガイに声をかけられ、その夜、俺はいつもの居酒屋に立ち寄った。
 はまた、俺と目が合うと口元を覆って俯いた。さすがに傷つく。

 しばらく三人で他愛ないことを話しながら酒を飲んでいると――はソフトドリンクだったが――遅れて現れた面子がいた。まさかと思ったが、カカシだった。暗部のあいつと顔を合わせることは滅多にない。あったとしても面越しで、素顔を見るのは何年ぶりか。
 ガイが呼んだらしいが、カカシはほとんど表情はなく、静かに焼酎を飲んでいた。

 カカシとの間に絶対に『何か』があったのが、そのとき初めて分かった。俺はガイの隣に座ったので、空いていたのはの横だったが、カカシが腰かけるとは咄嗟に口元を押さえながら露骨に距離を取った。カカシは特段顔色を変えることはなかったものの、の頬は飲んでもいないのに染まっている気がした。

 熱燗のおかげで暖まっていた俺の身体は、急速に冷えていった。

「じゃあ……俺、そろそろ帰るわ」

 四人でしばらく飲んでから、一番に俺が切り出した。俺ととカカシは、家の方向が同じだ。邪魔するつもりは、ない。苦しくても、の邪魔をしたいわけじゃない。

 それなのに、はまるで捨てられた子犬のような顔で俺を見た。縋るような潤んだ眼差しに、心臓が跳ねた。

「わ、私も帰る!」

 何でだよ。気ぃ遣ってやってんだろ。

 好きなら、逃げんなよ。

 苛立ちと、もやもやと――少しの嬉しさと。

 不服そうに口を尖らせるガイの向かいで、カカシは淡々と酒を飲んでいた。

 去り際に一度、カカシと目が合った。暗い、鋭い眼差し。何の感情も読み取れない、冷たい瞳。
 だが、その奥底に深い何かがある気がして、心臓が冷たくなった。

「ゲンマ、かえろ」

 不意に足を止めた俺の裾を、が控えめに引いた。
 どこか懐かしさを覚えて、胸が苦しくなった。