207.熱


 ガイに窓から呼ばれて、私は何の疑問もなく馴染みの居酒屋に入った。賑やかな店内でガイの姿を探すと、奥のほうの衝立から陽気に顔を出している彼を見つけて、躊躇いながらも歩み寄る。
 お酒は、あの夜から一滴も飲んでいない。あのあとすぐに雲の偵察任務が入って、そんなタイミングがなかったのもあるけど。

 何も考えずに衝立の中を覗いて、私は息を呑んだ。

 ゲンマか、もしくは特別上忍の仲間たちを想定していたのに、そこにいたのはカカシだった。

 四か月、同じ任務に就いていたのに、面を外した顔は一度も見なかった。

 四年ぶりにまともに見るカカシの顔は、完全に大人のそれになっていた。顔立ちが以前よりシャープになって、口布で覆っているものの顎のラインが引き締まったのも分かる。目付きもずいぶんと鋭くなり、彼は現れた私を冷たく一瞥しただけだった。

「お前たち、だいぶ久々なんじゃないか? はずっとカカシに会えないと言っていただろう」
「ガイ! 余計なこと言わなくていい!!」

 気まずさで死ぬかと思った。ガイのアホ、アホ、アホ!

 カカシはガイの話を聞いても顔色一つ変えずに、そっぽを向いてドリンクを飲んだ。お酒なのか何なのか、分からないけど。

 他には特に誰も呼ばれていないみたいで、私たちはしばらく三人でお酒やおつまみをつついた。私だって、多分通りかからなければここに加わっていない。タイミングが悪かった。
 喋っているのはほとんどガイだけで、私もカカシもまるでお通夜みたいに静かだった。

! 何だ何だ、さっきから全然飲んでないじゃないか!」

 私がソフトドリンクしか頼まないのを見て、悪酔いしているらしいガイが肩に腕を回してきた。酒臭いし、暑苦しい。もう帰ろうかな。

「私はいいよ……それより、そろそろ帰りたい……」
「何だって!? 青春の盃を酌み交わす前に! 帰るだと!? 、俺たちは共に技を磨きあった仲間だ! そんな不義理は許さない!!」

 ガイはお酒を飲むようになってから、どうやら一人称が変わったらしい。まぁ、この濃さでいつまでもボクとか言われるのもちょっと違和感があるから、ちょうどいいと言えばちょうどいいけど。それにしても、お酒の入ったガイは百倍めんどくさいな。

「……一杯だけだよ」
「それでこそ! 仲間だ! 愛しているぞ、!!」
「ハイハイ……」

 恥ずかしげもなく、よく言えたもんだ。ガイはゲンマにだって同じことを言う。鬱陶しいけど、やっぱりいつまでも変わらないガイの熱量は、私たちにとっても安心材料の一つだ。
 それはきっと、カカシにとっても同じ。

 カカシは私なんかより、ガイといるほうがずっと落ち着くんだろう。

 分かってる。分かってるよ、そんなの。

 今さら、嘆くようなことじゃない。

 さっさと退散しようとしていた私の目論見など、梅酒ソーダを一杯飲み終わる頃には、性懲りもなく意識と共に手放していた。


***


 知っているようで、知らない街並み。知らないようで、知っている街並み。

 あぁ。ここは確か、下忍時代に任務で訪れたあの温泉街に似ている。

 人混みを掻き分けて歩いていくと、少し先で不意に振り返ったのは、愛しいあの人だ。
 ゲンマが着ているのは、下忍時代のパーカーみたいだった。

 ゲンマは中忍になってからも、よくあのパーカーを着ていた。でも本部配属になってから、偉い人の護衛という仕事柄か、いつもベスト姿で仕事に臨むようになった。

 ゲンマは今より少し、若い気がする。本部配属になった頃かな。でも、パーカー着てるしな。そんなことをふんわり考えているうちに、ゲンマが優しく笑いながら近づいてきた。彼は何も言わずに、黙って私の手を取った。

 温かい胸に抱き寄せられて、身体の奥から熱くなる。

、好きだよ」

 痺れるくらい甘い声で、ゲンマが囁く。
 思わず震えた唇を噛んだら、涙が溢れ出た。ここのところ、何度も見てしまう。愚かな、夢。

「私も……大好きだよ、ゲンマ」

 気持ちを伝え合うだけで、こんなにも満たされる。
 温かい指先で、そっと頬をなぞられる。

 キスを待って目を閉じたとき、不意に手首に痛みを感じて私はハッと息を呑んだ。

 薄暗い視界の中に飛び込んできたのは、ゲンマの姿じゃなかった。


***


 あの日から、ずっとひとりだった。

 父さんを失った、あの日から。

 本当は気づいていた。ひとりではなかったと。見守ってくれる人たちがいたこと。仲間がいたこと。
 気づくのが、遅すぎたこと。

 俺が馬鹿だったから、あんな形でオビトを失った。オビトは仲間を大切にするやつだった。仲間を、そして、大好きだったリンを。心の底から、大切にしていた。

 俺が死ぬべきだったのに、オビトは俺の身代わりに死んだ。
 だから俺の命は、リンを守るために使う。それがオビトの遺志だから。約束したから。

 それなのに、何一つ守れないまま。

 オビトは死んだ。リンも死んだ。ミナト先生も死んだ。
 俺はもう、正真正銘のひとりだ。

 脳裏に、の顔が浮かんだ。ひとりじゃないよと言われているような気がした。

 違う。俺はひとりだ。俺はお前とは、違う。

 お前も最後の家族を自死という形で亡くした。だがお前はひとりじゃない。仲間がいる。お前を大切に思う、たった一人がいる。

 俺のことなんてもう、構う必要はないんだ。

 何度も何度も、家の玄関前にあいつのにおいが残っていた。会いたくない。あいつが俺を責めていないことくらい、分かっている。

『あんたを責めてるのは、あんただけだよ』

 分かっている。だからどうしろっていうんだ。俺は、俺を責めることでしか立っていられない。何かのせいにしなければ、あいつらの死んだ理由が見つけられない。

 死ぬべきだったのは、俺だ。そう言って罵ってほしい。誰か、俺を責めてくれ。俺が悪い。俺のせいであいつらを失った。お前のせいだと、詰ってくれ。

 いつからか。あいつから逃げるために、あいつのにおいを探すようになった。あいつに出会わなければ、あいつは俺を恨んでいると信じられるから。

 それなのに。

「カ……カカシが、好き、だから……」

 あの日、任務明けで頭がぼんやりしたまま歩いていたら、知らない間にあいつの家の近くまで来ていた。ハッとしたときには遅かった。あいつとゲンマが、どう見ても修羅場のような口論をしていて急いでその場を離れようとしたとき、突然俺の名前が飛び出して心臓が跳ねた。

 あいつが、俺を好きだと言っている。

 しかも、ゲンマを相手に。

 ――ふざけるな。誰がどう見たって、お前はゲンマが好きだろう。ゲンマだってお前が好きだ。何があったか知らないが、あいつはゲンマを突き放すために俺の名前を利用した。

 腸が煮えくり返る思いで、俺は家に走って帰った。思い出しても腹が立つ。無性に喉の奥が焼け付きそうに痛み、胸を抱えて咳き込んだ。痛い。痛い。腹が立つ。痛い。

 もう、感情など置いてきたつもりだった。

 この痛みは、何なんだ。

 忘れようとした。あいつの言葉に意味はない。ゲンマを遠ざけるために口先の嘘をついただけだ。俺に何の関係もない。意味はない。あいつと俺は、何の関係もない。同じ任務に就こうが、他の連中と同じように接するだけ。面の下で、俺はただの道具に徹するだけだ。

 ガイに引きずられて飲んだ酒の席にあいつが現れたって、あいつとガイが酔い潰れて動かなくなったって、俺には何の関係もない。

 関係、ないんだ。

「………」

 テーブルに突っ伏して爆睡しているガイとを、交互に見やる。ガイとは何度か一緒に飲んでいる。こいつは潰れてもそのうち一人で勝手に帰る。
 が、はどうだ? こいつはガイに暑苦しく絡まれるまで、酒を一滴も飲まなかった。飲めば帰れなくなると、自覚していたからではないのか?

(……飲ませたやつが、責任持って連れて帰れよ)

 呑気にいびきをかいているガイに恨み言を言ったところで、意味がない。

 全部、ガイが悪い。

 に肩を貸して、の家を目指す。は同世代の女からすれば低身長というほどではないものの、肩を合わせようとすればやはり腰に負担がかかる。ガイの顔を恨めしく思い浮かべながらふと首を巡らせると、あいつの無防備な寝顔が目に飛び込んできた。

 こいつの寝顔なんて、野営でいくらでも見ている。だがアルコールが入って気持ちよさそうに眠る姿は、俺にこれまでとは全く異なる感情を抱かせた。
 苦しい。大して飲んでもいないのに、息が喉に詰まる。

 この息苦しさは、何なんだ。

 関係ない。こいつが酒で潰れようが、ゲンマと別れようが、俺をその出汁に使おうが、何の関係もない。

 関係、ないのに。

 ポーチから鍵を探り当て、暗い玄関に入る。こいつの部屋なんて知らないし、店に放置しなかっただけ有り難く思ってほしい。もちろん俺が連れて帰ったことなど、こいつは知らなくていい。

 上がり口にの身体を横たえて、ようやく息をつく。世話の焼けるやつだ。二度とこいつとは飲まない。顔を合わせるのだって御免だ。

 立ち上がろうとしたとき、不意に手を握られて息を呑んだ。熱い手のひら。少し汗ばんだ肌。
 この動悸は、酒のせいだ。

「……ゲンマ」

 の口からこぼれ落ちる、かすれた名前。

 その瞬間、燃えるような熱に浮かされて、俺の身体は動いていた。