204.張りぼて


 あれ。私、ベッドで寝たっけ。

 目覚めた私は、ぼんやりした頭でしばらく仮眠室の天井を眺めた。ダメだ、思い出せない。
 確かベッドに、ゲンマがいて。

 そこまで思い出して、ハッと目を見開いた。そうだ、ゲンマ。慌てて飛び上がって仮眠室を見回したけど、ゲンマの姿はどこにもなかった。

 私、ゲンマの顔見たら、安心しちゃって気を失ったような気がする。
 ゲンマが寝てたベッドに今寝てるってことは、多分ゲンマが、倒れてる私をここに寝かせてくれたってこと。そう考えたら顔から火が出そうになって、私は振り払うようにきつく目を閉じた。絶対そうだ。ゲンマは、そういう人だ。

 ただの同僚みたいに振る舞って、目も合わせない日が続いたのに。
 それともゲンマは、私じゃなくても、同じように倒れてる同僚がいれば、抱き上げてベッドに寝かせるくらい、するかな。
 そうだよね。きっとゲンマは、誰にでもそうする。
 私だから、じゃない。

 どれくらい寝てたかな。早く、警備に戻らないと。

 でもベッドから降りようと足を伸ばした私の肩に、サクが突然現れて鋭い声を出した。

、変にゃ。雲のボスがいないにゃ」


***


 平和なんて、所詮は砂上の楼閣。

 日向家の事件は、私の中にまた大きな影を落とすこととなった。

 サクの報告を受けて捜索に向かったときにはすでに遅く、雲隠れの忍頭は日向家当主のヒアシさんに殺されていた。なぜなら、彼がヒアシさんの一人娘であるヒナタちゃんを連れ去ろうとしたからだ。
 もちろんヒアシさんは、敵の正体は知らなかった。知っていれば、とどめを刺す前に他の方法を模索しただろう。

 同盟なんて、形式上のものだった。雲はこの機に乗じて日向一族の白眼を狙っていたのだ。

 高まる緊張の中、戦争を回避するために雲が持ちかけてきた裏取引のために、分家のヒザシさんは命を落とした。

 雲との同盟はこれからも維持される。張りぼての平和。腹の探りあい。
 本当の平和なんて、あり得るんだろうか。

「ツイさん」

 ツイさんは、中忍の頃から付き合いのある日向家の上忍だ。カカシと三人で組んだとき、いがみ合う私たちを何度も叱ってくれたっけ。

 ツイさんは墓地の手前にたたずみ、とある墓石の前に座り込む小さな背中を見つめていた。

 ヒザシさんの一人息子の、ネジくんだ。

「ヒザシさんは、自らの意思で宗家を守って死んだ。だがネジにはまだそれが分からない。こうして、見守っていくしかないんだろうな」

 自らの意思で。

 たとえ過酷な運命だったとしても、強いられるか、選び取るかは、自分で決められる。

 ヒザシさんの死に様が、私にまた一つの忍びの在り方を教えてくれた気がした。

 でもそれは、大人の事情だ。
 子どもにとっては、ただそばにいてほしかった。それだけなのに。

 脳裏に、母の顔が浮かんだ。祖母も。

 少しずつ、薄れていく記憶も。

 家族なんか、もう欲しくない。

 ツイさんの傍らに立ち、ネジくんの背中を見つめながら、私はそっと目を伏せた。


***


 日向家の事件は、一部の上忍と上層部しか知らない。ようやく雲との国交正常化が成されたとして里はお祭りムードだし、戦争勃発も危うかったとなれば内部の治安にも影響しかねない。私も、サクの報告で日向家に駆けつけなければ、きっと知らされないままだっただろう。

 平穏な日々の陰で、犠牲になった人たちがいる。隠された事実が数え切れないほどある。

 私たちは、誰かの犠牲の上に暮らしている。

 十九歳の誕生日を目前にして、私は紅から居酒屋に誘われた。十八歳になってお酒が飲めるようにはなったけど、何だかんだ慌ただしくてまだ一度も飲んだことがない。お店に着いたらライドウもいて、その時点で、ちょっと嫌な予感がした。

 私がお酒未経験と知った紅に勧められて、梅酒のソーダ割りを注文する。あ、美味しい。ジュース感覚で、さらりと飲めてしまう。
 これがまずかった。ソーダ割りを一杯飲み終える頃には、身体中が熱くなって意識がふわふわと宙を舞っていた。

、あんた大丈夫?」

 紅の心配そうな顔に覗き込まれて、へらりと笑う。

「大丈夫大丈夫〜」
「それは大丈夫なやつが言うことじゃないな」

 ライドウの冷静な声も、どこか遠くに聞こえた。大丈夫だと思ったけど、やっぱり、だめかも。なんか瞼も重い。

「あ、ゲンマ。遅いわよ、こっちこっち」

 紅が陽気に声をあげる頃には、私はすでに意識を手放していた。


***


 雲隠れとの同盟が無事に締結され、仕事も少し落ち着いてきたタイミングでライドウから居酒屋に誘われた。本部配属になって五年、二人で改まって飲むのは初めてだな。
 だが雑務を終えて馴染みの居酒屋を覗くと、待っていたのはライドウだけではなかった。

「あ、ゲンマ。遅いわよ、こっちこっち」

 すでに酒が入っているのか少し頬を染めた紅と、その隣でテーブルに突っ伏している
 ライドウはジョッキを仰ぎながら、淡々と片手を挙げてみせた。

「何だよ、お前らもいたのか」
「ん? 私とライドウが邪魔ですって?」
「言ってねぇよ」

 紅はライドウに目配せしながら明るく笑った。本当にこいつらは、余計な気ばっかり回してくる。俺とが今距離を取っていることなんて、とっくに気づいているだろうに。
 だから、か。

 俺はライドウの隣に腰を下ろしながら、嘆息混じりにを見やった。

「何だ? 酔ってんのか?」
「見れば分かるでしょ。お酒飲んだことないって言うから梅酒ソーダ勧めたら、一杯でこのザマよ。弱すぎでしょ、どうなってんのよ」
「俺に聞くな。疲れてんじゃねぇのか?」

 もうすぐ十九になろうというのに、ソーダ割り一杯で潰れるなんてまるで子どもだ。俺はしばらくライドウたちと話をしながら酒を飲んだりツマミに手を伸ばしたりしたが、その間、は何度か小さく身じろぎしたくらいで、全く目覚める気配はなかった。

「で、ゲンマ。どうなのよ。喧嘩の原因は何?」

 の話はとっくに終わったと思っていたのに、紅がズイと身を乗り出してきて出し抜けに聞いた。紅はガキの頃からどこか大人びていて、いつからか化粧を覚えて一段と大人の女になった。
 いきなり顔を近づけられれば、そりゃ、ドキリとするのは仕方ない。

「何の話だよ」
「とぼけない。とずっと喧嘩してるでしょ。分かるわよ、はどうしても強情になっちゃうところがあるから。でもね、あんたも男ならそこはさっさと譲りなさいよ。みっともないわよ」

 何がみっともないだよ。何も知らねぇくせに。
 譲って何とかなるもんなら、いくらでも譲るわ。

「待て、紅。ゲンマの言い分を聞いてやれ。俺にはが避けているようにしか見えない」
「だとしても、よ。男は折れてなんぼ。避けられてるなら、追いかけないと。好きなんでしょ?」
「――は俺のことなんか、好きじゃねぇんだとよ」

 居た堪れなくなって口を挟むと、紅とライドウが目を丸くして一斉にこちらを見た。
 紅の隣には、相変わらず平和に寝息を立てる

 何なんだ、この状況。酒のせいか、耳まで熱くなってきた。

 やがて、ばっさりと切り捨てたのは紅だ。

「それはないでしょ。がそう言ったの?」
「そうだよ。だから、俺らのことは放っといてくれねぇか。こんなこと、だって迷惑……」
「ゲンマぁ」

 一瞬、聞き漏らしそうになった。

 名前を呼ばれた気がして顔を上げると、全員の視線が眠るに注がれている。
 は変わらず眠り続けている。それなのに俺の名を呼んだのは、確かにの腑抜けた声だった。

 身体中に熱がこもる中、紅がニヤニヤとこちらを眺めている。ライドウも呆れた様子で苦笑いしていた。

「ふーん。俺のことなんか、好きじゃない。ね。ふーん」
「な、なんだよ」
「別に。さ、明日もあるし、そろそろお開きにしましょうか。ゲンマ、のことお願いね」
「なっ! 何で、俺が!!」
「他に誰がいるのよ。家、近いんでしょ? お願いね。今日は私たちの奢りだから。じゃ」

 じゃ、じゃねぇよ。紅とライドウは当たり前のように伝票を持ってさっさと帰っていった。
 衝立に囲まれた半個室に二人きり。は今も平和に眠り続けている。

 この店も、この個室も、との思い出でいっぱいだ。

、起きろ。歩けるか?」

 念のため、肩を揺すって声をかける。反応はない。俺はため息ひとつついて、の隣に移動した。

。おい、

 の肩をつかんで起こし、顔を覗き込む。すると赤い顔ではぼんやり目を開き、俺の顔を見てクシャリと子どものように微笑んだ。

 心臓を撃ち抜かれるとしたら、こういう感覚なんだろうと思った。

「……クソッ」

 ぱたりとすぐにまた脱力して、が俺の腕の中に崩れ落ちてくる。
 再び寝息を立て始める彼女の髪からは、覚えのある香りがうっすら漂っていた。