203.小休止
ゲンマと別れてから――という表現が適切かは分からないけど、三か月くらい経った。これまでの経験からすれば、噂はあっという間に広まるかと思ったけど、意外とそうでもなかった。
多分、跡継ぎを産むか産まないかというナイーブな話題だったことや、私とゲンマはこれまでもしばらく口を利かない期間があったりしたからか、周りはまた喧嘩でもしたんだろうなくらいの空気感だった。深刻すぎるよりは、いいけどね。
「、セレモニー当日のゲンマの配置が出てたぞ」
「アオバ、うっさい。その情報要らない」
したり顔で耳打ちしてくるアオバを睨みつけて、私は小声で吐き捨てた。
セレモニーというのは、雲隠れとの同盟締結を記念して年の瀬に開催予定の式典だ。雲隠れとは二代目火影の時代にも一度同盟を結ぶ手筈が整えられていたけど、雲隠れのクーデターによって失敗に終わり、当時の火影も雷影も命を落としたという悲惨な歴史がある。あの同盟が成立していれば、その後の大戦そのものが回避できたかもしれない。
もちろん、そんな話をしても仕方ないんだけど。
ここに今、再び雲隠れとの同盟が結ばれようとしている。
私たち情報部は、何か月も前からこの日のために準備してきた。雲隠れの代表団の身辺調査、セレモニー当日の警備計画を本部の様々な部署と連携して立案、国家間の記録の暗号化と保持、セレモニーまでの雲隠れの動向の把握――これらを班毎に分担して、三代目やシカクさん、いのいちさんたちの指示の下、綿密に計画を立てて進めてきた。
不安がないではない。約五十年前、雲隠れのクーデターによって当時の火影は命を落とした。
護衛部も当然その点に関していつも以上に神経を尖らせていた。とはいえ、使者を迎えての式典で表立って厳重な警備を敷くわけにもいかない。そこで三代目に一人つけられる護衛には、要人警護分野の特別上忍であるゲンマが選ばれた。
ゲンマなら心配要らない。何があってもその場の状況を見て、冷静に対処できる。私たち情報部はセレモニーのみならず、里中の警備のサポート。私も忍猫たちと共に、何処かで不審な動きがないかを逐一チェックして回った。
あれから、仕事で顔を合わせてもゲンマは必要なことしか話さなくなった。本当に、ただの同僚にでもなったみたいだった。胸が痛んだけど、それは私が望んだことだ。私が嘘をついてまで突き放したんだから、当たり前の結果だ。
でもゲンマの腰には、相変わらず私の贈った忍具ポーチが提げられていた。
私はといえば、あのローズベージュの口紅は封印した。ゲンマが、あれを見たら私とのキスを思い出すと言ったから。あんなことを言われて、あんな風に迫られた口紅をつけることなんて、二度とできない。
代わりにそれまでずっとつけていたコーラルオレンジに戻したら、紅に目ざとく指摘された。
「前のローズ系、すごく良い感じだったのに」
「やめて、言わないで……」
「ゲンマと喧嘩でもしたの?」
「違う、そういうんじゃない……ほんとにもう、いいの……ゲンマのことは、もういい」
「はぁ? あんた、あんなに一途な男、他にいないわよ?」
「分かってるよ。分かってるから……お願いだから、ほっといて」
紅は物言いたげだったけど、仕事中の立ち話だったから、すぐに移動になって話は切り上げられた。助かった。ゲンマが一途だなんて、私が一番よく分かってる。一途どころか、頑固すぎる。私のことなんか、忘れてくれていいのに。
ゲンマの腰のポーチが目に入るたび、居た堪れなくて息が苦しくなった。
カカシに最後に会ったのはいつだったかな。あのとき咄嗟に名前を出してしまったのは、カカシならゲンマと会うこともほとんどないだろうから、迷惑かけなくて済むかなって思ったからだ。
好きな男の名前を言えなんて、今考えたらめちゃくちゃなことを言われたのに、あのときはパニックになってしまって、誰でもいいから答えなきゃって思った。そうしないとゲンマは、宣言通りにきっとこれからもずっとああやって待ち構えるだろうから。
ゲンマは、約束したことは破らない。私が「好きな人」の名前を言ったから、あれから私をどこかで待ち受けることは一度もなかった。
「お前、どアホにゃ? よりにもよって、カカシにゃ? 呆れて毛も逆立たないにゃ」
「うるさい。何とでも言って」
肩口のサクに毒づきながら、私は顔を背ける。
これで良かったんだ。これで。私は誰とも結婚しない。ゲンマと結婚できないなら、誰とも結婚したくない。結ばれてから壊れるよりも、初めから交わらないほうがいい。お互い、傷が深まる前に離れられる。
雲隠れとの同盟を、絶対に成功させる。岩、砂、雲との国交正常化が実現すれば、世界はまた安定への道を踏み出せる。絶対に成功させる。失敗は許されない。
無事にセレモニーを終えて、ようやく一息ついた私は本部の仮眠室に飛び込んだ。諜報分野の特別上忍として指示を出す立ち場にあったし、この二、三か月は特に緊張が途切れる暇もなかった。おまけにゲンマとのことがあって、全く気が休まらなかった。シスイが話を聞いてくれなかったら、どうなっていたか。
少しでいい。三十分。まだ油断はできないけど、少しでも横になりたい。
でも仮眠室の簡易ベッドには、すでに先客がいた。
薄暗い部屋でうつ伏せに眠っているのは、額当てを外して髪もボサボサのゲンマだった。
***
式典を終えて、雲隠れの代表団が無事に宿に戻ってから、ようやく一息ついた。五十年前に雲隠れとの同盟が締結されようとしたとき、二代目火影は命を落とした。俺の脳裏に、四代目の顔がちらつく。絶対に駄目だ。二度とあんな思いはしたくない。何があっても守り抜く。
特段の問題はなく、式典は無事に終了した。街中は祝いムードで夜も賑やかだったが、俺たちは交代で少し仮眠を取ることにした。ここのところ緊張が続いていたから、さすがに少しでも横になりたかった。
額当てだけ外して、薄暗い仮眠室のベッドに倒れ込む。スイッチでも切れたように、一瞬で眠りに落ちた。どれくらい眠ったかは分からないが、それほど長時間ではないだろう。
ふと気配を感じて目を覚ますと、ベッドの脇に何かが転がっているのが見えた。
ぼんやりしていた意識が、暗闇に慣れた視野と共に目覚めていく。
床に倒れているのは、どう見てもだった。
一瞬で肝が冷えて、俺はベッドから飛び起きた。なぜ、どうして。何があった。何で倒れてる。
だが慌てて降りて彼女の身体を抱き起こすと、どうやら眠っているだけのようだった。
もしかしたら俺と同じで、一瞬で意識が飛んだのかもしれない。
せめてベッドまで我慢しろよ。床に転がってんなよ。心配させやがって。
安心したら、思わず笑ってしまった。あれから三か月、ろくに口も利いていないし、目を見て話すことはほとんどない。諦めるつもりはなかったが、どう接していいか分からないまま、今は目の前の仕事に集中するしかないと思った。
あぁ。やっぱり、好きだ。
少し口を開けて眠る無防備な姿に、心臓がぎゅっとなる。分かってはいたが、やはり俺の気持ちは変わらない。が本当にカカシを好きになったとしても、俺の気持ちが揺らぐわけじゃない。
頬に触れたい。キスしたい。だが、この状況で勝手にやるのはフェアじゃない。
そっと抱き上げて、俺は自分が先ほどまで寝ていたベッドにを横たえた。
「お疲れ、」
ただそれだけを囁いて、仮眠室をあとにする。
さて。
もう一踏ん張り、してくるかな。