200.背中


 一瞬、動揺しなかったといえば嘘だ。だが、すぐに思い直して唇を引き結ぶ。そんな見え透いた嘘、誰が信じるんだよ。

「ほんの少し前までずっと俺と二人で会ってたくせに、そう都合よく他の男に惚れんのかよ。そんなもん、俺を遠ざけるための嘘にしか聞こえねぇよ」
「そんなの、ゲンマが決めることじゃない。好きになっちゃったもの、しょうがないでしょ」

 平静を装ってるつもりなんだろうけどな、そんな泣きそうな顔で言われても、説得力ねぇんだよ。
 どんだけずっと、お前のそばにいたと思ってんだ。

 の手首を握り、顎を掴む。少し背を屈めれば、すぐにキスできる。いつ誰が通りかかるかも分からないのに、どうかしている。それこそ親父やお袋が現れても不思議ではないのに。
 それでも俺は、今にも消えてしまいそうなを必死に繋ぎ止めようとしていた。

 ふと、脳裏に四代目の顔がよぎった。馬鹿か。そんなはずがない。四代目はもういない。俺たちが、守れなかったのだから。

「そんなもん信じねぇ。大体、他に好きなやつができたところで誰とも結婚しねぇなら関係ねぇだろうが」
「だから、ゲンマに関係ないでしょ。それだって私の片思いなんだし、ほっといてよ」

 頑なに目を逸らそうとするに、苛立ちが募る。
 大切にしたい。壊したくない。この気持ちに嘘はないのに、心を閉ざして何度も離れていこうとするを前にすれば、どうしても乱暴に引き止めてしまいたくなる。大切にしたいのに、大切にできない。自分が、嫌になる。

「ほっとけねぇから、こうやって何回も何回も会いに来てんだろうが」
「迷惑だから! 他に好きな人できたから、だからもうゲンマのことはそんな風に思ってないの。もう私に構わないでよ」

 腹が立つ。何年も何年も、頼って甘えて、大好きと言って散々くっついてきたくせに、肝心なときには何も話そうとしない。その度に強引に聞き出して、泣き喚くお前のそばにずっといた。

 分かっている。別に頼まれたわけじゃない。俺が勝手に、そばにいたかっただけだ。涙を見せてくれることが、嬉しかったからだ。
 俺がしたくて、してきたことだ。誰に強制されたわけでもない。

 だから。

 の手首を握る指先に、また力を込める。が苦しそうに顔を歪めるのを、息がかかるほどの距離で見つめる。
 胸は痛むが、それ以上に、絶対にを手放したくなかった。

「信じねぇ。どうしてもこれ以上俺につきまとわれたくないって言うなら、その好きになったってやつ、誰なのかはっきり言え」

 言えるはずがない。俺以外に、いるわけがない。シスイのことだって、冷静に考えればそんなわけがないとすぐにわかったはずだ。あのときの俺は特別上忍になったばかりで、自分のことで手一杯で、に会えない苛立ちで気がおかしくなっていた。
 ――今もそうでないと、言えるのか?

 確信と不安と焦りが交互に押し寄せる中、俺はの強張った顔を半ば睨みつけた。は一瞬言葉に詰まったようだったが、震える唇を結んでから、消え入りそうな声で囁いた。
 俺が初めて塗ってやった、薄赤い口紅。クソ。キス、してぇ。

「カ……カカシが、好き、だから……」

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。確かに聞こえたはずなのに、聴覚が何も拾わなくなる。呼吸さえも忘れて、いつの間にか喉が詰まった。
 俺の顔を見たが、気まずそうに瞼を伏せた。

 何も考えられない。何も感じない。

 ただ、胸の奥からじわじわと冷たいものが広がる脱力感に、指の力が次第に抜けていった。

「カカシ……だ?」

 俺の手が顎から外れると、は黙って俯き、やがて小さく頷いた。
 呼吸は浅く、息苦しく、脈はやたらと速まる。額ににじむ嫌な汗が、秋の風を受けて冷たく流れた。

 カカシなんて、あり得ない。そう断言できないことに、俺の心臓は張り裂けそうになった。
 ガキの頃から、がカカシのことで楽しそうにしている姿は見たことがない。

 だが確かに、はよくカカシのことを気にかけていた。
 カカシのために何かしたいと、嫌われたかもしれないと泣いていたこともあった。

 強くなりたいと願ったのもカカシのため。忍びとしてどう生きるかを考えるきっかけになったのは、カカシの父親。

 暗部に行こうとしていたときだって、はカカシのために悩んでいることを否定しなかった。

 もしかしたら、本当に?

「カカシは……私のことなんか、嫌いだから。もうずっと避けられてて会ってもくれないし。でももう、いいの。どうせ私、結婚しないから関係ないもん。好きだけど、どうしようもないもん。だから諦めてる。ゲンマだって、私なんか待つ意味ないよ。もう、ただの同僚に戻ろ」

 戻ろうって、何だよ。

 ただの同僚だなんて、俺は一度も思ったことねぇよ。

 クソ――クソ。クソ。

 脱力した俺の手を離して、は後ろに下がった。俯く俺の視界に入った彼女の手首には、少しだけ赤い痕が残っていた。

「じゃあね……ゲンマ。また、仕事で」

 俺の横を通り抜けて離れていくを、振り返ることもできない。俺は付きまとわれたくなければ男の名前を言えと言った。は名前を言った。だからもう、これ以上追うことはできない。たとえその名が、本当か嘘か分からないとしても。
 それを確かめる術など、ないのだから。

「……クソッ」

 それ以外に、何も言えなくなる。頭の中が、まだ、ぐちゃぐちゃに乱れて考えられない。

 確かなのはただ、への強い感情だけ。

 離れたくない。

 だがは俺の前から去ったし、俺もあとを追うことはできなかった。