199.好きな人


 結論が出るまでは、絶対に会いたくないと思った。だからゲンマが訪ねてきても居留守を使ったし、サクが余計なことをして玄関を開けたときは部屋の窓から逃げた。顔を見たら絶対に、気持ちが揺らぐから。
 私はゲンマのことが、大好きなんだから。

 でも、何か月もかけて私は結論を出した。結婚しないし、子どもも産まない。は私で終わりにする。ヒルゼン様にもご意見番にも、お世話になった旧家の上忍たちにも話した。

 イクチのところには、行かなかった。



 奈良家からの帰り道、私は家のすぐ近くでゲンマに呼び止められた。仕事着のゲンマはすごく険しい顔をしていて、何もされてないのに息が詰まりそうになった。
 でも、いつかこうなることは分かりきっていた。いつまでも、逃げ回ってはいられないんだから。

「ゲンマ……久しぶり、元気?」
「人を散々避けといて、よく言えるな」

 千本を小刻みに揺らすゲンマの物言いが、初めて聞くくらい刺々しい。胸が痛んだけど、私は平然と声を出した。
 私は木の葉の諜報員だ。仕事でいつもやっていること。演じるくらい、容易い。

「何のこと?」

 ゲンマはそれには答えず、その長い脚であっという間に近づいてきて、乱暴に私の手首を掴んだ。熱い手のひらが肌に食い込んで、痛みが走る。
 ここまで強くゲンマに触られること、今までなかった。

「痛いよ、離して」
「二人で話したい。家、入れて」
「やだ。話ならここでできる」
「いいのかよ、ここで。また俺と、妙な噂が立っても」

 ゲンマの鋭い視線が、私を抉るように射抜く。怒りも、悲しみも、焦りも、もどかしさも、愛おしさも、全部綯い交ぜになったような熱を帯びて、私をまっすぐに見下ろす。
 それでも私は、迷わずその目を睨み返した。

「別にいい。私は困んない。そんなのもう、関係ないから」

 するとゲンマの目がまた一段と鋭くなって、手首を握る指にさらに力が入った。折れるかもってくらい痛くて私が思わず息を呑んだら、ゲンマは少し目を開いて私の拘束を緩めた。
 でも、決して逃げられそうにはなかった。

 そこの角を曲がれば、私の家の玄関。何ならここから塀を越えればすぐに帰れる。でも絶対、ゲンマはそのまま追ってくる。適当に話して、別れないと。

「俺がやったポーチ、どうした」

 私が何か言うよりも先に、ゲンマが低い声で聞いてきた。思わず視線を落としたら、ゲンマの腰には私がプレゼントしたと思われるポーチが提げられていた。
 分かっていた。ゲンマがあれからずっと、身につけてくれていることは。

「別に……やっぱり支給品のほうが、便利だから」
「使いやすいっつったろうが」
「だって手入れとか、めんどくさいじゃん」
「メンテナンスは頼めるっつっただろ。支給品じゃすぐ駄目になるってお前が文句言ってたんだろうが」

 そうだ。私が以前、支給品は耐久性に欠けるからもっと丈夫なのがいいってぼやいていたのを、ゲンマは覚えてくれていた。忍具も装備も基本的には里から支給されるけど、自前で準備したって別に咎められるわけじゃない。ゲンマも私も艶消しの千本を特注しているし、ポーチだってよく自前で買っている。互いにそのことを知っていて、贈り合ったものだ。
 でも、そんなの関係ない。ゲンマとの思い出を、身につけるわけにいかないから。

「そんなの、ゲンマに関係ないじゃん。もらったもの私がどうしたって私の勝手でしょ」
「そうだよな。その口紅だって、お前の好きでつけてんだよな」

 口紅のことを指摘されて、思わず耳まで熱くなった。やおらゲンマの顔が近づいてきて、私は慌てて顔を逸らす。
 ゲンマの声はいつもより低く、熱を帯びているようだった。

「俺はその口紅見たら、お前とのキス思い出すんだけど。お前は別にそれつけてても、何とも思わねぇんだよな?」
「そ、そうだよ。関係ないもん。あれだって、ゲンマが勝手に……」
「そうだよな。俺が勝手に、キスしただけだもんな」

 ゲンマは明確に腹を立てていた。苛立たしげに指先に力を込め、もう一方の手で私の顎を掴む。どきりとして、声が裏返った。

「やだ……やだ、ゲンマやめて!」

 こんなところですることじゃない。そりゃ、私が家は嫌だって言ったけど、それにしてたって。

 逃げればいい。私は忍びだ。縄抜けだって何だって、応用していくらでも抜け出せる。それなのに頭が働かなくて、顎を固定されてゲンマの顔が近づいてきたら、ただ子どもみたいに拒絶することしかできなかった。
 いつの間にか口から千本を外していたゲンマが、キスの前に動きを止めて低く囁く。

「お前だって、何でも一人で勝手に決めるだろ。お前がたった一人での歴史を終わらせる覚悟だって、他人の口から聞かされる俺の気持ちがお前に分かんのかよ。何でいつもいつも、全部一人で決めるんだよ。結婚なんかしなくたって、お前がを全部背負ってたって、俺はお前といたいんだよ。お前だって……俺のことが好きだって、言っただろうが」

 駄目だ。まともに答えたら、駄目だ。目を見ちゃ駄目だ。全部崩れるから。

 どうしてゲンマの前では、ただの諜報員でいられないんだろう。
 自来也さんからも、いのいちさんからも、ばあちゃんからも。本部配属になったときだって、精神制御の術はいくらでも学んできたはずだった。

 このままじゃ駄目だ。キスなんか、もう二度としちゃ駄目だ。

「他に! 好きな人が……できた、から……」

 咄嗟に口から出たでまかせは、ほとんど触れかかったゲンマの唇を止めるには充分すぎるほど効果的だった。