198.先行き


「お前、ちゃんに振られたって専らの噂だぞ」
「……どこで、専らの噂だって?」
「とある界隈」
「どこだよ、とある界隈って……」

 イクチの話に頭を抱えながら、俺は深々と息をついた。

 に避けられているということは、自分でも気づいていた。この忍具ポーチをもらってからというもの、オフで一度も会えていない。家に行っても明かりはついていないし、ついていると思って呼び鈴を鳴らしても出てこない。一度サクが現れて「なら部屋にゃ」と鍵を開けてくれたから、躊躇いながらも中に入ったら、その間に窓から逃亡されていたときにはさすがに傷ついた。

 理由は容易に想像がつく。あの日、俺がコハル様から結婚のことでプレッシャーをかけられていることを、が知ってしまったからだ。

 俺も悪かった。の結婚のことなのに、俺が何とかすると言ってしまった。はひどく傷ついた顔をして、ゲンマだって勝手だと言った。
 が一人で、殻に閉じこもろうとするときの言い方だ。別に初めてのことじゃない。

 それでも、これまでで一番、嫌な予感がした。

 俺はあの日から、にもらった忍具ポーチをいつも身につけている。俺がやったものと同じで、正直あの値段のものを誕生日でも記念日でも何でもないときに女からもらうのは如何なものかと思わなくもないが、が俺のことを考えて、同じものを選んでくれたことが心底嬉しかった。任務のときもいつもそばにあるポーチが、互いを確かに繋いでくれているような気がした。

 それなのに、あれから本部で見かけるの腰に、あのポーチはついていなかった。

 使いやすいって、言ってたくせによ。

 イクチの話では、は重役たちに、子どもは産まないと宣言したそうだ。家は自分で最後だと。
 またそうやって、一人で勝手に決める。

 何でそうやって、すぐ独りになろうとする。

 分かっている。家族を巡る、の心の傷は癒えてなどいない。家族になれば、いつか壊れると信じ切っている。

 家族になりたくないなら、それでもいい。子どもなんて、作らなくていい。
 お前がそばにいてくれたら、俺はそれだけでいいのに。

 こんなに好きにさせておいて、今さら、放り出そうとするなよ。

 お前以外の女なんか、好きになれるわけねぇだろうが。

 ポーチの内側には、見えにくいところに小さなお守りを一つ縫い付けてある。ガキの頃にお袋から初めてもらったものだが、十八のときに新しいものを改めて贈られた。
 子どもじゃあるまいし、いつまでも身に着けるのもどうかと思ったが、これはきっと、も持っているものだ。昔から本当の娘のように思っているに、お袋が渡さないはずがない。

 ガキの頃から、家族のように思っていた。今、あの頃と形は変わっても、掛け替えのない存在であることに変わりはない。
 にとっても、俺は――俺たち家族は絶対にそうなのに、心に深く傷を負ったは、自分にそんな資格はないと思い込んでいる。

 迷惑をかけろって、何度言っても聞きやしない。
 お前がいなくなることのほうが、もっと何倍も、耐えられないほど痛むんだよ。

「あいつは本当にアホなやつにゃ」

 時折サクが現れて、俺の肩に乗る。不知火の分家の中で、三代目と同世代の年長者が、忍猫が以外の肩に乗るのは初めて見た、と言った。

 サクとの繋がりは、俺にとって希望だ。生まれたときからがずっと一緒だった、兄妹のような存在。アイが死んだ今、にとって唯一の家族といえた。
 そのサクが、今も俺との繋がりを保とうとしてくれる。

 ある夜、深夜に帰宅した俺は部屋のドアを閉めてふと違和感に気づいた。滅多にないが、郵便受けに何か入っている。中には小さな封筒が一つ転がっていた。

 仕事に関する伝令なら、こんな形で届くことはまずない。不思議に思いながら封筒を手に取ると、その感触に、まさかと嫌な予感が過った。

 やはり、中には俺の部屋の鍵が入っていた。

 メモも名前もなかったが、俺が合鍵を渡している相手なんて、一人しかいない。

 はこれまで、何度かこの部屋に来てくれた。見つめ合って、抱き合って、時々ふたりで食事をする。ただそれだけだったが、俺は忙しない日常が、彼女と触れ合うことで深く癒されるのを感じた。

 は一度もこの鍵を使わなかった。きっと、俺がいないときに部屋に入ったことは一度もない。いつでも来ていいと伝えてあるのに、俺の在宅中に来て、必ず呼び鈴を鳴らす。それでも、合鍵を持っていてくれるだけで、また俺たちの繋がりが約束されるように思えて安心した。
 それなのに。

 何でそうやって、離れていこうとするんだよ。

 こんなに、好きにさせたくせに。

 封筒をそのままポケットに突っ込んで、俺はの家に走った。明かりはついていなかった。暗く静まりかえった家は、俺のことを完全に拒絶しているように見えた。

 しばらく任務で里を離れ、三代目への報告を終えると俺だけ残るように指示された。何の話か、聞かなくても分かった。

のことだが」
「……はい」

 三代目が小さく息をついて俺の方を見やる。

「近頃、あやつと話したか?」
「いえ……忙しくて」
「それだけではなかろう?」

 どきりとして、頭を掻く手が止まった。まったく、火影という人たちは。

「……避けられていると、思います」

 すると三代目は悩ましげに眉根を寄せて嘆息した。

「あやつは、一人で全てを終わらせるつもりだ。の歴史を全て一人で背負い、平和を築くために己の全てを差し出そうと」

 胸が痛くてたまらなかった。こんなことを他人の口から聞かされることも、が俺を頼ってくれないことも、勝手に離れていこうとすることも、がそうならざるを得ない家に生まれたことも。

 誰のせいでもない。それはきっと、家の繰り返してきた因果だ。

「誰よりも愛情深い一族がいる。その者たちが深く傷ついたとき、衝動が外に向かう者たちと、内に向かう者たちがいる。家の多くは、後者だ。故に己さえ犠牲になれば良いと考え、孤独を抱えて殻に閉じこもってしまう。澪も凪も、そうだった」

 三代目の言葉に、顔を上げる。

 分かる気がした。あの澪様でさえ、そうだった。

「だがな、ゲンマ。そうしたの因縁から抜け出そうとした者もいた。その者は家を去り、また愛情深い者のもとへ嫁ぎ、家庭を持ち温もりを知った。たとえ愛する家族が先に逝ってしまったとしても、その者の中に残る、愛する者たちの記憶は決して消えることはない。にも、いつかそのことが分かる日が来ると私は信じたいのだ」

 かつて、家を去った者。澪様の妹、という人か。確かオビトのばあちゃんだという話を聞いたことがある。とオビトは、遠縁だったと。

 はきっと、を捨てることはない。それでも俺は、の全てを最後まで見届けたい。

はもしかしたら、母よりも祖母よりも強情者かもしれん。それでもお前は、辛抱できるか?」
「はい」

 その言葉は、当たり前のように自分の口から零れ出た。迷うことなど、何ひとつなかった。
 そんなことは、とうの昔に知っている。

「十年以上、あいつをそばで見てきました。あいつのことは、俺が一番よく分かっているつもりです」
「……そうか」

 三代目はそう言って、やっと口角を上げて微笑んだ。

を愛する全ての者たちが、の先行きを案じておる。お前のような者がいてくれることで、いつかの心も癒えるかもしれぬ。だが決して、無理をするでないぞ。の心は、自身にしか開くことはできぬ」
「はい……分かっています」

 何度も、何度も。閉じようとするに手を伸ばし、こじ開けてきた。何度も。

 どうせ閉じると、諦めることは容易い。

「どんなでも、そばにいることはできますから」