196.宣言
おかしいなって思ってた。最近、コハル様が何も言ってこないから。ひょっとして、諦めたのかなって。私が仕事を理由にコハル様から逃げ回っていたから。
でも、そんなわけなかった。ちょっと考えたら分かることだ。今や私とゲンマの噂は里中の忍びたちの間で知られていると思っていい。ヒルゼン様やチョウザさんは何も言わないけど、シカクさんみたいに、さも当然のように「結婚するんだろ?」と聞かれることも珍しくない。
私たちのことが、コハル様の耳に届いていないわけがない。私じゃ埒が明かないと、コハル様がゲンマに詰め寄っていたって不思議じゃない。
そんなこと、ちょっと考えれば分かることだった。
「あ、ちゃん!」
公園で遊んでいたネネコちゃんが、路地から顔を出す私を見つけてパッと表情を明るくした。当主就任のとき、私は不知火家にも挨拶に行った。ネネコちゃんに会うのは一年ぶりくらいだったけど、ネネコちゃんは私を覚えてくれていて、お喋りも上手になって「ちゃん」って元気に呼んでくれた。すごく嬉しかったけど、すごく後ろめたく感じた。私は不知火家のゲンマのことを、不安定に縛り付けているのに。
ゲンマたちのところから一目散に走ってきたサクが、私の肩に飛び乗って不満げに鳴いた。
「子どもは苦手にゃ。うるさいにゃ」
「あんたたちだって発情期とかめちゃくちゃうるさいじゃん……」
猫は天候が落ち着く春や秋に発情期を迎えることが多い。五月に入ったちょうど今頃、普通の猫も忍猫たちもテンションが上がりがちだ。サクもよく独特の鳴き方をしているけど、子どもはまだいないらしい。
私は呆れてサクに話しかけたけど、気まずそうな顔でゲンマがこちらに近づいてくるのが見えたから、慌てて踵を返した。ヤバい。話、聞いてたの絶対にバレた。
走り出したときにはもう遅くて、追いついてきたゲンマに腕をつかまれた。
「、待てよ。さっきの話、聞いて……」
「聞いてない」
「じゃあ何で逃げんだよ」
ゲンマの顔を、見られない。握られた手が、すごく熱い。
頑なに顔を背ける私の肩で、サクがあっけらかんとこう言った。
「ぜーんぶ聞いてたにゃ」
「サク! 余計なこと言わないで!」
こんなときに限って、余計なことばっかり言う。
じっと足元を見据えて動かない私に、ゲンマは淡々と言ってきた。
「コハル様のことは、気にしなくていい。俺が何とかするから」
「何とかって……何? 気にするなって何? 私のことなのに? ゲンマが何とかするようなことじゃ、ないでしょ? ゲンマは私が何でも一人で勝手に決めるって言うけど……ゲンマだって、勝手に決めてるじゃんか」
そのとき、ゲンマが息を呑んだのが分かった。ハッとして顔を上げると、ゲンマはすごく苦しそうな顔をして私を見下ろしていた。
私、ゲンマにすごく、嫌な思いをさせてる。そう思ったら痛くてたまらなくなった。
やっぱり私といたって、ゲンマを苦しめるだけなんだ。
「、ごめん、俺……お前に、無理させなくなくて。俺のところで、止めればいいと思った……」
ゲンマは、悪くない。ゲンマは、いつも私のことを考えてくれてる。子どものときから、ずっと。
私が頼りないから。私がどっちつかずでずっとフラフラしてるから、ゲンマが私を支えようとしてくれてるんだ。
そんなことする必要、ないのに。ゲンマは、ゲンマのことを一番に考えればいいのに。
私、迷惑かけてばっかりだ。
「もう、いいよ……のことは、私の問題だから。ゲンマが悩む必要、ない」
「、そういう言い方――」
また目線を落として突き放すように告げる私に、ゲンマの鋭い声が降ってくる。ほとんど喧嘩腰にまた口を開こうとしたとき、肩口のサクがのんびりした調子で口を挟んだ。
「そんなことより、、そいつをさっさとゲンマに渡すにゃ」
「なっ! ちょ、サク、空気読んで!」
「早くするにゃ。さっさとおやつを買いに行くにゃ」
寿命が縮まりそうだった。このタイミングで、サクは最悪の提案をしてくる。怪訝そうに片眉を上げるゲンマの前で、私は右手に掴んだ紙袋の取っ手を思わず握り締めた。
中身はゲンマにと思って買っていた、あの革製の忍具ポーチだった。
「……何? それ、俺に?」
「ち、ちが……」
「違わないにゃ。ずっとお前に渡すタイミングがないか待ってたにゃ。今日はお前も休みって知って、探してたにゃ」
「サクっ!!!」
もうイヤ。最悪。時空間忍術が使えたら今すぐ飛ぶのに。
でもゲンマに左手を握られたままで、逃げることもできない。
触れ合う肌が熱くて、汗がにじんできた。
恥ずかしさも、気まずさも、居た堪れなさも、罪悪感も、全部ぐちゃぐちゃになって全身を掻き回す。逃げたい。消えたい。今すぐ塵になって、飛んでいけたらいいのに。
私がいたって、誰も幸せにならない。
「……俺のなら、欲しい。見せて」
ゲンマの声は、すごく小さくて、優しかった。それだけで涙が出そうになって、恐る恐る視線を上げると、ゲンマは少し頬を染めて微笑んでいた。その目を見たら、やっぱり好きだと思って、心臓が痛いくらいに脈打った。
熱に浮かされたみたいに、ぼんやりしながら紙袋を渡す。ゲンマは私の左手を離して、嬉しそうにそれを受け取った。
中身が何かは、すぐに分かったみたい。そりゃ、自分も少し前に同じものを買ったんだから、分かるよね。
「お前、これ……」
「だ、だって、ゲンマも……ポーチ、汚れてたなって。使いやすいから、ゲンマにもいいかなって思って……でも、迷惑なら……」
「……アホ」
ゲンマの声は、どこまでも優しかった。やめてほしい。これ以上、好きにさせないで。
子どもみたいなそんな顔で、笑わないで。
「めちゃくちゃ嬉しい。ありがとな」
好きしか、出てこない。どうしたらいいんだろう。
私といたって迷惑をかける。もう、終わりにしなきゃって、思ったところなのに。
ゲンマの顔を見たら、すぐに気持ちが揺らいでしまう。好きで、好きでたまらない。
ゲンマ以外の男の人なんか、好きになれるはずがない。
家族になるなら、ゲンマ以外考えられない。
だから、もし、ゲンマにこれ以上迷惑かけたくないって思うなら――。
答えは、一つしかない。
***
ばあちゃんは、思い悩むと歌いながら舞っていたと聞いた。少し時間ができると私は時々神社に行って踊ってみたけど、かといって何か天啓が降ってくるわけでもない。当たり前、だけど。
ゲンマを避けている、というのもあった。最近あまり仕事でも顔を合わせることはないけど、ゲンマは変わらず私を大事にしてくれようとしているのが分かった。
あのとき、サクのせいでゲンマにポーチを渡す羽目になったけど、もうこれ以上迷惑はかけられないから離れなきゃって思った。ゲンマは私を大事にして、きっと傷つかないように守ってくれようとしている。そんなの、本当は健全じゃない。私はもう子どもじゃないし、自分の足で立たなきゃいけない一人の人間だ。でも、私がずっと不安定だから、ゲンマに心配ばっかりかけてきた。子どもの頃から、ずっと。
私の人生に、ゲンマがこれ以上付き合う必要はない。
でも、私はシカクさんの言葉を借りれば、せっかちだから。大切なことだから、一人でしっかり考えようと思った。焦って答えを出さないで、自分とちゃんと向き合って。
だから踊ってみたし、歌ってみたし、千本の修行に耽ってみたし、将棋盤に向き合ってみた。やっぱり突然始めた舞いなんかより、私は忍びとして身につけた習慣のほうが馴染んだ。
時間をかけて考えても、やっぱりこうするしかないと思った。
「お前から訪ねてくるとは珍しいな」
コハル様の屋敷を訪れ、私は客間のいつもの場所に座って恭しく頭を下げた。
「家当主、として申し上げます。この家は、私をもって終わりといたします」