195.違和感
おかしいなって思ってた。最近、コハル様が何も言ってこないから。
十八歳になって、私は正式に家の当主となった。といっても、ヒルゼン様から権利書などの書類を受け取り、里の旧家に挨拶して回ったくらいだ。サクやレイたちは特に興味なさそうだったし、私も何かが大きく変わったわけじゃない。ただ、お見合いの話がこれまで以上にしつこく持ち込まれるだろうなって思っただけだ。
でもコハル様のところに挨拶に行ったときも、早く跡継ぎを産むようにと言われただけで、お見合いの話なんて一言も出なかった。相手もいないのに、跡継ぎも何もないだろうに。
「お前もついに家当主か。早いもんだな」
奈良家に挨拶に行ったとき、シカクさんは私を見て感慨深そうにそう言った。
シカクさんのところにも、チョウジくんと同じ年に息子さんが生まれている。もう二歳になったはずだ。確かネネコちゃんの一個下だった。
「お前がうちで将棋を指してたのが懐かしいな。最近どうだ? 多少は強くなったか?」
「あはは……なかなか、時間がなくて」
「ま、そうだろうな。だがな、。そういうときこそゆっくり考える時間ってやつが必要だ。特にお前みたいな、せっかちな奴にはな」
私はちょっとムッとしたけど、もうあの頃の私じゃない、とは言えなかった。シカクさんはそんな私を見透かしたように、小さく笑ってみせた。
「ま、気長にやんな。焦ったっていいことなんざ一つもねぇんだからな。跡継ぎのことだってそうだ。そのへんはお前よりゲンマのほうがずっと心得てるだろうがな」
突然シカクさんの口から出てきた名前に、私の心臓は跳ね上がった。何で、ここでゲンマの名前が出てくるの?
「え、ゲンマは関係ないですよね?」
「ん? おめぇら、結婚を前提に付き合ってんだろ?」
「な、ないですっ!!」
反射的に否定したけど、私たちはそう思われても仕方のない関係、なのかもしれない。通い婚、とか言ってる人もいるらしい。恥ずかしすぎる。
でも結局、私たちは付き合ってもいない。
シカクさんは不思議そうに顎髭を撫でながら、
「そうか。まぁ、そのへんは立ち入らねぇよ。自分らでしっかり話し合って決めな。お前は家最後の一人だ。それだけ他の家よりプレッシャーも大きい。いつまでもガキみてぇなこと言ってらんねぇんだからな」
ガキみたいなこと。
そう、だよね。結婚したくない、子どもなんか産みたくない。そう言って曖昧に逃げ回ることは、きっと当主としての責任を放棄することだ。
二月の下旬には、久しぶりにゲンマがうちに来てくれた。シカクさんの言葉が頭を過ったけど、やっぱり私は嬉しくてゲンマを家に上げてしまった。
成人祝いだって、すごく上等そうな革のポーチをくれて。コトネさんからって、新しい口紅をくれて。
塗ってやるって当たり前みたいに言われたときは、心臓が沸騰するかと思った。
顎を優しくつかまれて、口紅の先が少しずつ滑っていくだけでも気がおかしくなりそうなのに、その感触が離れたと思ったら、すぐに柔らかな温もりが唇を覆って目が覚めた。
ゲンマにキスされたって分かって、全身から汗が噴き出した。同時に、涙がぼろぼろと溢れ出た。
幸せでたまらないのに、幸せだって言えなくて、苦しかった。
「、好きだ。俺と、結婚してください」
私なんかよりゲンマのほうが、ずっと先のことを考えてくれてる。
ゲンマと結婚して、ゲンマの子どもを産む。きっとそれが一番いいのに、想像しただけで嫌な予感が脳裏をよぎって怖くてたまらなくなる。
母さんも、ばあちゃんもいなくなった。生まれたときから一緒だったアイも守れなかった。サクは大蛇丸さんとの一件から、口寄せすればまた駆けつけてくれるようになった。私もサクも、きっと思いは同じだ。もう二度と、兄妹みたいに育った相手を亡くしたくない。
ゲンマはきっと、死ぬまでそばにいるって約束してくれる。ゲンマはきっと、この先もずっと変わらない。だけどきっと、私がその幸せに耐えられない。
私が誰かを、幸せにできるわけない。
ゲンマには、絶対幸せになってほしいのに。
久しぶりに紅と同じ任務についたあと、帰りに少し買い物に出かけた。紅は私が口紅を変えたことにすぐ気づいて、似合ってるわよと褒めてくれた。
嬉しかったけど、ゲンマとのキスを思い出してしまって耳まで赤くなった私を見て、紅は鮮やかな唇で悪戯っぽく微笑んだ。
「あらあら。ひょっとして、ゲンマからのプレゼント?」
「ち、違うって!」
「男が口紅を贈るってことは……つまり、そういうことよね? キスしたい――」
「聞いてよ人の話っ!!」
キスという文言が出てきて動揺したことを悟られないように、私は勢いよく声をあげた。紅は明るく笑いながら、私の頭をポンポンと叩いた。
アスマのことがあってから、紅は前よりもゲンマとのことを全面的に応援してくれるようになった。とはいえ、紅は私たちが付き合っていると思い込んでいるし、私も否定するのはやめたから、裏路地のちょっとセクシーな肌着のお店に連れて行かれたりする。私が口紅しか塗らないのを見て、もうちょっとオシャレしたら? って家に連れて行かれて無理やり化粧されたこともあった。
今日も強引に裏路地に連れて行かれそうになったとき、途中のショーウィンドウで見慣れたものを見つけて思わず足を止めた。
成人祝いにゲンマから贈られた忍具ポーチだった。そういえば、こんなお店の名前だった気がする。
「これ、今あんたが使ってるポーチじゃない」
紅も私の後ろから覗き込み、素っ頓狂な声をあげた。
「あんた、こんな高いもん使ってるの? 消耗品でしょ、支給品でいいじゃない」
言われて、慌てて私も値札を探す。零が二つ間違ってるんじゃないかと思うくらい、めちゃくちゃ高価な商品だった。
こんなもの、ありがとうってヘラヘラしてただもらっていいものじゃないよね? いくら成人祝いだからって、高すぎる。
私は腰のポーチに触れて、ゲンマの顔を思い浮かべた。バカだな、ほんとに。こんなこと、しなくていいのに。
でも、十八歳という節目の年に、ゲンマがこのポーチを選んでくれたということが、やっぱりどうしようもなく私の胸を締め付けた。
そういえば――ゲンマのポーチも、最近だいぶくたびれてるな。
私はその日、紅と別れたあと、もう一度商店街に戻ってあの忍具ポーチと同じものを買った。
***
またコハル様に結婚はまだかとせっつかれた帰り、思い直してイクチの家に寄った。ネネコももうすぐ四歳になる。もう俺の顔を見て泣き出すことはないが、俺はどうやら買い出し要員としか思われていないようで、手ぶらで行けば「ゲンマ、おかし」と言って玄関を指差される。買ってこい、という意味らしい。可愛くねぇな、まったく。
コトネは今日出かけていて、家政婦も休み。しばらく居間で話したあと、ネネコが「おそといく!」と言うので、イクチと俺は少し散歩に出ることにした。
「ちゃんとはどうだ? そろそろコハル様もやきもきしてくる頃だろ」
「まぁな……今日も小言もらいに行ってきた」
「そりゃまぁ、ご苦労さん」
イクチには全部話してある。イクチは俺にとって、兄弟みたいなものだ。とのことも、ガキの頃から見守ってくれていた。もちろん、当時の俺はそんなことには全く気づいていなかったが。
「が十九になるまでに結婚しろって言われてる。それまでに俺がに婿入りしねぇなら、無理にでもに見合いさせるってよ」
「まぁなー。ちゃんだって危険な仕事してんだから、できるだけ早くって上が焦る気持ちは分かるけどな。忍猫は信頼関係さえ築けば命令なしでも自発的に動く貴重な口寄せだし、里としては手放したくないだろ」
「失礼なやつにゃ」
突然耳元で声がして、俺の肩に重みが乗った。何の前触れもなく現れたサクが、俺の肩に座ったまま、隣のイクチの顔を尻尾で勢いよく叩いた。
びっくりして思わず声が裏返った。
「サク、お前、いつから……」
「最初からにゃ。ボクらは別に木の葉のためにここにいるわけじゃないにゃ」
やはり忍猫たちは、里に帰属しているわけではない。あくまでと共に在るためにここにいる。
小さな公園で他の子どもたちと遊んでいたネネコは、俺の肩に乗るサクに気づくと大はしゃぎで駆け寄ってきた。
「ねこちゃん!!」
「ニャ!! 近づくにゃ!!」
「おはなしする、ねこちゃん!!」
腰を下ろした俺の肩には、ネネコも充分に手が届く。無遠慮に手を伸ばそうとしたネネコを低い声で威嚇しながら、サクは俺の肩から飛び降りて走り去った。
その後ろ姿を見送った先に、呆然と目を見開くが立っていた。