194.十八歳


 十八歳。それは大きな節目の年だ。

 俺たち忍びは子どもの頃から命懸けの戦いを強いられる。そこに大人子どもの区別はない。死ぬときは等しく死ぬ。だが九尾襲来のときがそうだったように、未成年はやはり守るべき存在として、大人にとって区別される位置づけにある。

 十八歳になった時点で、守られる側から明確に守る側へとシフトする。

 も今日、子どもから大人へと変わった。

 たった一日で、何かが劇的に変わるわけではない。は何年も前からすでに優秀な諜報員だったし、俺の目にはもう決して子どもだと自分をごまかせないくらい大人の女に映っていた。

 それでもやはり、十八になったを前にしたら、俺の心には以前とは違う落ち着かなさが生まれた。
 それはきっと、いつまでも結論を先延ばしにできないからだ。

 はついに、結婚できる年齢になった。

 本当はうちの両親やイクチの家族も祝いたがっていたが、が忙しいことはみんな分かっている。俺も仕事中に本部で遭遇しただけだし、忙しそうなに祝いの言葉もかけられなかった。

 コトネから頼まれた贈り物を持ってを訪ねることができたのは、二月も暮れに差しかかった頃だ。

 十八になって、は正式に家の当主になったそうだ。たった一人の一族にしては、背負うものがあまりに大きすぎる。
 もっと、寄りかかってくれたらいいのに。

、これやるよ」

 成人祝いとして、俺はに忍具ポーチをプレゼントした。誕生祝いなんて、これまで一度たりともやったことがない。だが、十八歳は特別だ。
 は驚いた様子で包装を開けた。それから心底嬉しそうに、照れたように笑いながら、ありがとうと言った。

 その笑顔を見るだけで、俺はとても満ち足りた気持ちになった。

「そろそろ新しいのにしようと思ってたんだけど、バタバタしててそのままだったんだよね。ありがと、早速使うね」
「おう。説明書入ってるけど、革製だから簡単な手入れは要るからな。まぁ、面倒ならメンテナンスのサービスとかもあっから」
「すご。なんかめっちゃしっかりしてそうだけど……ほんとにいいの?」
「いいって。これ使って……俺のところに帰ってきてくれたらそれで」

 俺の言葉に、はびっくりしたように瞬いたあと、また頬を染めて目線を泳がせながら、うんと小さく囁いた。帰宅してから落としたのか、唇にはいつもの橙の口紅は塗っていない。

「あと、こっちはコトネから。開けてみろよ」

 俺が差し出した小さな包みを、はまた驚いた様子で受け取った。本当に、コロコロ変わる表情が見ていて飽きない。ガキの頃から、ずっとそうだった。
 中から出てきたのは、新しい口紅だ。二年前に贈ったものとは違う色だとコトネは言っていた。

「貸して。塗ってやるよ」
「えっ! え、ちょ、いいよそんなの……」
「いいから」

 戸惑うの手から口紅を取り上げて、蓋を開ける。いつもつけている橙とも、二年前に一度だけ見た紅いものとも違う。ほんのり赤いベージュといった感じで、これなら橙とはまた違った印象で、仕事中にもつけられそうだなと思った。
 真っ赤になっているの顎を、左手でそっと固定する。そんなに緊張されたら、俺だって緊張するだろ。

、ちょっと力抜いて」
「……む、無理……」

 は泣きそうな顔でそう言いながら、少しだけ口元の力を抜いたようだった。代わりにこれでもかというくらいきつく目を閉じて固まっている。思わず微笑みながらも、俺の身体にも熱がこもる。
 少し口紅の先が触れると、の唇が震えた。俺も震えそうになる指を鎮めながら、初めて女の唇に色を添えていく。

 落ち着いた華やかさを帯びたの唇に、俺は吸い寄せられるようにキスをした。

 パッと目を見開いたと至近距離で見つめ合って、息を呑む。の瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちていた。
 一気に肝が冷えた。

……悪い、その……嫌だった?」
「ばか! イヤじゃ、ないから……困ってるのに……」

 そう言って顔を覆いながらしゃくり上げるの姿に、胸が締め付けられる。彼女が少し落ち着くのを待ってから、俺は赤く潤んだの瞳をまっすぐ覗き込んだ。

、好きだ。俺と、結婚してください」

 あれ以来、まともなプロポーズは初めてだ。あのときは、冗談でも二度と言うなと言われた。冗談なんかじゃない。そして今度は、はそんなことを言うなとは言わなかった。

 ただ戸惑った様子で目を泳がせ、顔を背ける。俺が頬に手を添えてこちらに向かせると、熱でもあるのかと思えるほど体温が上がっていた。

。俺の目、見て」

 困ったように、上目遣いで見つめられて、息が詰まる。その目を見ていれば、嫌がっていないことはすぐに分かった。ただ、どうしていいか分からない――ひたすら戸惑いだけがぐるぐると巡っている。

、今すぐ結婚しろなんて言ってない。待てって言われればいつまでだって待つ。何に悩んでるか、全部教えてくれ」
「……待ってくれたって、私……応えられないよ」

 消え入りそうな声で絞り出して、は逃げるように目を伏せた。は、奥二重だ。泣くとよく二重になって、余計に放っておけなくなる。

、俺の気持ちは変わってない。お前も、もしお前が子ども産んでもいいって思ったら、お前の子どもだって絶対幸せにする。お前が苦しんできたことだってずっと知ってる。だから今さら、迷惑かけるなんて他人みたいなこと考えんな。俺はとっくにお前のこと……家族以上だって思ってんだよ。迷惑かけろよ。頼むから」
「だって……怖いもん。ゲンマのこと、大好きなのに……家族なんかなったら、絶対壊れるもん。やだよ……家族なんか、なりたくない……」

 こんな関係になってから、が初めて好きだと言ってくれた。そのことはとてつもなく嬉しいはずなのに、家族という概念に対する恐怖が、の中に根強く染み付いているのが分かった。

 その背を抱き寄せて、の匂いを鼻腔にしっかりと吸い込む。頭にそっと口づけてから、先ほどの口紅が自分の唇にも付いていることを思い出した。少しべたついているから、の髪にもついてしまったかもしれない。

。お前の家族は、そうだったかもしれない。でもお前は、俺の家族のこと知ってるだろ。イクチのとこもそうだ。家族だからって、絶対に壊れるわけじゃない。壊れそうだってお前が思っても、絶対に俺が守るから」

 は俺の背を抱き返しはしなかった。揺れながら、迷っているのが分かった。もちろんここで全てが変わるなんて思っていない。今はただ、俺の気持ちが変わっていないことを伝えたかった。

 の肩をつかんで少し離し、至近距離から覗き込む。の潤んだ瞳が、戸惑いながらもじっとこちらを見上げて想いを伝えてくるのが分かった。俺のことが好きだと。本当はずっと、そばにいたいと。
 目を閉じて、またの唇にキスを落とす。何度も角度を変えながら、時々食むように吸い付くと、つかんだの肩がぴくりと震えた。

 身体の芯まで、焼け付きそうだった。

「嫌か?」

 ようやく唇を離してそっと問いかけると、はどこか恨めしそうに眉根を寄せた。

「……今さら、聞いたって……遅いよ」
「嫌だったのか?」
「ばか……」

 に馬鹿と言われるときの淡い響きが好きで、ぞくりとする。に知られたらきっと、また馬鹿と言って引かれるんだろうな。

「口紅、取れちまったな」

 濡れたの唇を見つめながら呟くと、は俺の口元を凝視して途端に真っ赤になった。

「ばかっ!! すぐ拭いて!!」

 ソファから立ち上がろうとしたの腕を引いて、再びその背を抱き寄せる。彼女の身体をきつく腕の中に収めながらこっそり唇を拭うと、うっすらと赤い痕がついた。

「急がなくていいから。俺は、お前と一緒にいられるだけで幸せだから。お前がいつか、俺と家族になってもいいって思えたら……俺はいつでも、待ってるからな」

 待っていると言われることは、にとって負担かもしれない。それでも、は俺のことが好きだから。いつか家族を求めたときに、俺のことをすぐ思い出せるように。
 腕の中から、小さな嗚咽が聞こえてくる。だって本当は、俺の気持ちに応えたい。だがを形作ってきた数々の環境が、彼女の感情を堰き止めている。分かっている。全部、分かっているから。

 が十九歳になるまでと、やはり区切ることはできない。
 期限を設けて、を追い詰めたくはないから。

 ご意見番のことは、俺の方で何とかする。

 お前はただ、これからも俺のそばにいてくれるだけでいい。