190.準備
ガイとお店の前で別れて、私たちはしばらく黙って歩いた。ガイは結局、元々住んでいた家の近くに新しくできたアパートに住み始めた。家を建てる気は、今のところないみたい。建てようと思えば、建てられると思うけど。
私の家まで半分くらいまで帰ってきてから、半歩先を行くゲンマが、振り返りもせずに聞いてきた。
「家、寄っていい?」
「……いい、けど」
「けど?」
「……ゲンマ、怒ってるよね」
「怒ってねぇ」
怒ってる人は大体そう言う。私の家に着いて、玄関に入って引き戸を閉めたら、ゲンマがすぐに後ろから抱きついてきた。私の頭に、スリスリと顔を押しつけてくる。
「怒ってんじゃねぇ。拗ねてんの」
「……正直」
「お前の口からカカシの話なんか聞きたくない」
昔は黙って聞いてくれたのに。
ゲンマは、私がいつまでもカカシのことで気を揉むのが嫌みたい。私がカカシのことを話すとき、いつもしんどそうだって。本人が受け取ろうとしないんだから、私がいつまでも世話を焼くことなんかないって。
でもね、ゲンマ。それでも私は、放っておけないんだよ。
カカシは私の友人で、オビトの目を持つ仲間で、リンの大切な人だったんだから。
「ごめんね、ゲンマ。でもやっぱり、カカシのことほっとけないよ。私がそう決めたから。カカシを一人にはさせないって、自分で決めたから。何ができるか分かんないけど……諦めないで、会いに行こうと思う」
私のお腹の前で交差するゲンマの両手に、私のそれを重ねる。するとゲンマは後ろからまた私の頭に擦り寄って、不意に耳朶の後ろにも触れた。
思わずビクリと身体が跳ねた。恥ずかしすぎて、顔を背ける。
ゲンマはそのまま私の耳元で低く囁いた。
「……決めるのはお前だから、俺に止める権利なんかない。でも、こういうことさせるのは……俺だけにして」
「あ、当たり前でしょ、ばか!!」
何の話してんのよ。カカシはそんなんじゃないってば。
そんな風に甘えるゲンマにも、反射的にそう答える自分にも呆れてしまう。
私たちは、付き合ってもないのに。
イクチの言葉が思い出されて、余計に心臓が跳ねる。先のこと、見合い話、跡目。
ヒルゼン様が家の管理を担ってくれるのは、私が十八になる頃までという約束だ。
それまでに、決めなきゃいけないことがたくさんある。
イクチはゲンマと話したほうがいいって言ってた。でも、何を話すの? 私たち、結婚するわけじゃないのに?
――こんなに、恋人みたいなことしてるのに?
頭の中がグチャグチャになる。ゲンマと一緒にいたいのに、それじゃダメだって誰かが口を挟む。
不意に思い出されたのは、遠い日の母さんの言葉だった。
『誰かを想う気持ちが強すぎると、時にそれが自分を縛ることになるの』
好きにならなければ、こんな思いをしなくてすんだ。
私を引き止めてるのは、心の中の母さんなんだろうか。
ううん、関係ない。私が、ゲンマを巻き込みたくないだけだ。私が、自分で選んでる。
「ゲンマ……もし私がお見合いするってなったら、どうする?」
恐る恐る問いかけると、頭の上でゲンマの呼吸が止まった気がした。ハッとして顔を上げたけど、ゲンマの顔は私の後頭部に押し付けられていて見えない。しばらく黙り込んだあと、ゲンマはひっそりと口を開いた。
「……見合い、すんの?」
「し、しないよ! もしって言ったじゃん!」
「しないで」
「……私が決めることって言わないんだ」
「お前が決めることだ。だから止めてる。すんな。他の男と結婚するくらいなら俺として」
どきりとして、思わず息を呑む。あの夜以来、ゲンマは結婚しろなんて言わなかった。私が結婚したくないことも分かっているし、子どもを作りたくないことも分かってる。
私がゲンマの気持ちを受け入れないのは、結婚する気がないからだ。一緒にいたくないからじゃない。
ゲンマの気持ちはきっと、前からずっとシンプルで。私と一緒にいたい。私が、他の男の人と仲良くするのは嫌だ。
「……ゲンマは、結婚したいの?」
「お前とならしたい。でもお前がしたくないなら別にいい」
ゲンマはきっと、何回聞いても同じことを言うだろう。子どもの頃から、ずっと変わらないように。シンプルだから、きっとぶれない。
私は、変わってしまったんだろうか。それとも昔からずっと、こうやってぐらついてたんだろうか。
「……好きだ」
ゲンマに肩をつかまれて、今度は正面から抱きしめられる。しばらくゲンマの胸でゆっくり呼吸を繰り返してから、私は腕を伸ばして彼の背中を抱き返した。
私だって、結婚するならゲンマしか考えられない。でも、結婚なんかしたくない。
いつまでも、結論を先延ばしにはできない。
十七歳の誕生日を目前に控えた頃、私はヒルゼン様から呼び出しを受けた。火影邸ではなく、ヒルゼン様の屋敷に。
二度と戻ってくんなって、アスマに捨て台詞を吐いてしまったあの家に。
「約束通り、私がの管理を行うのもお前が十八になるまでだ。それまでに、今後、をどうしていくか、ある程度決めておかねばなるまい」
をどうしていくか。漠然としたことしか考えてこなかったから、私は言葉に窮した。
ヒルゼン様は煙管を燻らせながら、小さく微笑む。
「無論、私も手を貸すし、里には古くから連なる旧家が少なくない。秋道家、山中家、奈良家……あぁ、お前は確かイクチとも親しかったな?」
その名前に、ドキリとする。先のことを考えたほうがいいと、最初に教えてくれたのはイクチだった。
「イクチも幼い頃に両親を亡くし、家督を継ぐまでに色々な葛藤があった。良き相談相手になろう。決して一人で抱えるでないぞ」
「……はい」
家督を継ぐにあたって何をすべきか。きっとそういう話は、イクチやチョウザさんに聞けば教えてくれるだろう。
でも、女系一族の最後の生き残りがどう生きるべきかなんて、きっと誰も教えてくれない。
私がどう生きるかは、私が決めるしかない。
時々チョウザさんの家を訪ねながら、私は少しずつ家督を継ぐための準備を始めていった。