188.におい
アスマは中忍試験の喧騒に紛れるようにして里を去っていった。ヒルゼン様は、黙って見送ったみたいだった。
二度と帰ってくんななんて、言っちゃった。それから一度も会えないまま、それきり。
本当に帰ってこなかったら、私はそのときどう感じるんだろう。また、馬鹿なことをしたって自分を憐れむんだろうか。
中忍試験が終わったあと、紅はしばらくぼんやりしていた。でも一転して、まるでアスマのことを忘れようとでもするみたいに仕事に打ち込むようになった。色恋なんて性に合わない、私は仕事が恋人だからって。
「葵、あんたは幸せになりなさいよね。あんなに一途な男に想われてんだから」
紅は私を見て、穏やかな顔でそう言った。
ゲンマはそんなんじゃないって、私はもう言わなかった。そんなことを言うのは、アスマのことで傷ついた紅にも失礼な気がした。
幸せになる。それがどういうことなのか、私にはよく分からない。結婚すること? 子どもを産むこと? だったら私は幸せになれない。でもそこにゲンマを巻き込んでいいのか、ずっと頭の中でぐるぐると終わりのない問いが渦巻いていた。
ゲンマは私がいなきゃ意味ないって言った。すごく嬉しいけど、本当にそれでいいのか分からない。本当は子どもが欲しいんじゃないのか、おじさんやおばさんは孫を望んでるんじゃないか。
ゲンマならきっと、俺の生き方は俺が決めるって言う。でも私たちは、一人で生きてるんじゃない。本当にそれでいいんだろうか。
九尾襲来から一年が過ぎようという頃、新居が完成したということでイクチの家族がゲンマの実家を出ることになった。元々、彼らの屋敷があった場所だ。
里の外から長期契約で来てくれている大工や、貴重な土遁使いが昼夜問わず働いてくれたおかげで、里はほとんど以前の生活を取り戻した。
「葵ちゃん、またうちにも遊びに来てね」
本部で鉢合わせたとき、イクチはいつもの笑顔で手を振った。
「口紅、似合ってるよ。あの紅いのも、たまにはつければいいのに」
「……仕事中につけれないよ」
「まぁねー。見惚れてゲンマが怪我しても危ないしねー」
「……イクチっ!!」
真っ赤になって思わず声を張り上げると、イクチは明るく笑った。ほんとに、憎めないな。昔からそうだ。だからたくさんの人に愛されて、イクチのところに情報が集まるんだろうな。
「ゲンマとは最近どう? ちゃんと話せてる?」
どういう意味で、聞いてるのか。でもきっとイクチには、全部バレてる気がする。黙り込む私の耳元で、イクチは声を潜めて囁いた。
「二人とも忙しいだろうから、なかなかゆっくり話す時間もないと思うけど。でも今のうちから、先のことを少しずつ考えておいたほうがいいよ」
「……先のこと?」
思わずドキリとして聞き返すと、イクチはちらりと横目でこちらを見た。その目は、いつになく真剣だった。
「まだ早いけど、結城家は旧家だからね。葵ちゃんが最後の一人とあって、周りが放っておかないと思う。俺も跡目を継ぐ前にそういう話が勝手に持ち込まれて大変だった。結論を急ぐ必要はないけど、周囲から見合い話が出ても慌てないために、そろそろ心の準備はしておいたほうがいいと思うよ」
見合い話。私はまだ、十六なのに?
結婚する気も、子どもを産む気もないのに?
「でも、結城は私一人だし……お見合い話なんか持ってくるような親戚、いないよ……」
「見合い話を持ってくるのが親戚だけとは限らないよ」
イクチはそう言って、私の肩をポンと叩いた。そのときにはもういつもの明るい笑顔に戻っていて、軽く手を振りながら去っていった。
その背中を見送ってから、はたと気づく。今の言い方だと、お見合いとか結婚とか、そんな話をゲンマとしたほうがいいってこと? 何で、そんな前提になってるの!?
ワンテンポ遅れてイクチの意図に気づいた私は、廊下の隅でひとり、火が出そうなくらい熱い顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
***
あいつ。また来たのか。
においが残っているということは、十二時間以内だ。鉢合わせしなくてよかった。暗い玄関に入ってサンダルを脱ぎ、ほとんど習慣だけで部屋までたどり着く。
初めに気づいたのはパックンだ。普段は秘境に暮らす忍犬たちと共に帰宅することはほとんどないが、使いにやったパックンが戻ってきたとき、玄関口で鼻をフンフン動かしながら「葵のにおいだ」と言った。
最初は、仕事の話かと思った。本部の連中と組むことはほとんどないが、ゼロというわけではない。実際、情報部のあいつとツーマンセルを組んだこともある。
だが、そういうことが何度か続いて、仕事の話ではないなと分かった。
お節介なあいつも、リンが死んでからは関わってこなくなった。それはそうだろう。リンはあいつの親友だったし、俺が殺したことも当然あいつは知っているだろう。恨んで当然だ。恨み言の一つも言わなくたって、俺を恨まないわけがない。
一体、何の用だっていうんだ。
俺もそれなりに鼻は利くが、もちろん忍犬ほどじゃない。それでも、家が近づくと俺は警戒してあいつのにおいを探すようになった。そもそもあいつとは家が近い。そばを通らないように迂回して帰るのが常だ。少しでもあいつのにおいがすれば、俺はその道を避けるようになった。
次第に、里のどこにいても、あいつのにおいを探すようになった。
会いたくなんかない。どんな顔をして会えばいいか分からない。だから面をつけ、口を閉ざすことで俺は里の道具になりきろうとした。
オビトの、リンの、先生の望んだ平和な世界を築くための、道具に。
噂話くらい、俺の耳にだって届く。あいつはゲンマと付き合っている。子どもの頃からあの二人は、いつも一緒だった。ゲンマならきっと、あいつの心の傷を癒せるだろう。
今さら、俺なんかに関わろうとするな。
まるで俺のにおいが分かるかのようにいつも突然現れるガイの隣に並びながら、俺はまた、自分が彼女のにおいを探していることに気づいた。