187.プライド
紅とアスマが付き合ってるなんて、ちっとも知らなかった。私、本当にまだまだ里のことを知らない。
私たちが特別上忍になったから、アスマが拗ねているという話は紅から聞いていた。正直、そんなこと気にしなくていいのにと思っただけだ。でもまさか、そんなに深刻な話だったなんて。
アスマは、里を出ていこうとしている。
「大名の護衛として……各地から忍びが集められてるみたい。それに志願するって。私とのことも、もう終わりにしたいって」
「は……はぁっ?」
何、それ。
大名の護衛の話は、私も知っている。もともと木の葉の護衛部には、依頼があれば大名専属で対応する忍びがいる。でも、九尾襲来から一度もその依頼は来ていない。
以前から、戦争の影響で大名の側近が木の葉に不信感を持っていることは知っていた。それが九尾の一件で膨れ上がり、木の葉の手は借りないという話になったらしい。私たち情報部も戦争回避で手一杯だったし、大名周辺との関係改善については完全に後手に回った。
大名は護衛として国中から優秀な忍びを募り、専門の護衛部隊を作る計画だ。アスマはきっと、そこに志願するつもりでいる。
何で、そこなのよ。認められたかったら、もっと他にやることあんでしょうが。
彼女を泣かせてまで、やることなの?
屋敷を訪ねて声を張り上げると、しばらくして心底めんどくさそうにアスマが顔を出した。
「何か用かよ」
「大有りよ!! あんた、里を出ていくって本気なの?」
勢いあまって問い詰めると、アスマは苛立たしげに眉根を寄せた。
「お前に関係ねぇだろ」
「ないわけないでしょ! 仲間じゃんか! 何でそんな言い方するの!」
関係ないって、私だって人に散々言ってきたのに。何度もゲンマを傷つけたのに。
カカシに言われるのは慣れてた。私だって、あんたのことなら関係ないって言った。でも本当は、関係ないって仲間に切り捨てられることは、こんなにも痛かったんだ。私はきっと、カカシのことだって何度も傷つけた。
「俺を置いて……さっさと行くくせに」
アスマが吐き捨てるように漏らした言葉に、目を見開く。アスマは私を苦々しく睨みつけてあとを続けた。
「お前には分かんねぇよ……誰からも評価されて、順風満帆に出世街道を行くお前なんかに、俺の気持ちは」
その言葉に、胸の奥が軋む。母さんの、ばあちゃんの顔が浮かんで、歯がゆさに唇を噛んだ。
「……あんた、本気で言ってんの?」
アスマはちょっと、しまったという顔をした。でも、今さら後に引けないんだろう。不機嫌そうに口を引き結んでから、また話し始めた。
「俺は自分自身で、自分の力を証明する。もう決めたんだ。誰にも邪魔させない」
「そんなこと……里でやれることやればいいじゃない。ヒルゼン様だってちゃんとあんたのこと見てるんだから」
「親父は俺のことなんか見ちゃいない!」
アスマが突然大きな声を出したからびっくりした。普段は飄々としていて、声を荒げることなんてないと思っていた。
「親父は、お前やカカシのことばっかりだ。里のみんなを家族だって言う……なら、俺は? 何で実の息子をまともに見ようとしない?」
これではまるで、あの頃の私だ。ばあちゃんは里のことが大事で、私のことなんかちっとも見てないっていつも怒っていた、あの頃の。
「……で? 猿飛サンは拗ねてるわけですか?」
私の物言いに、覚えがあったんだろう。アスマはカッと赤くなって語気を強めた。
「俺は自分の力を証明したいだけだ。外の世界で、火影の息子なんて肩書きに縛られずに俺自身を証明する。そうすれば親父だって俺のことを認めるしかなくなる。邪魔するな」
「分かった。あんたのことはそれでいい。でも紅はどうすんのよ」
そこで初めて、アスマが恥じ入ったように目を伏せた。アスマにとって、ただそれだけが気がかりなのだと分かった。それなら、何で。
「付き合ってるんでしょ。自分のプライドのために、彼女を捨ててくっていうの? それでも男なの? かっこ悪いよ、アスマ」
「……お前に関係ないだろ。男には、恋愛なんかより大事なもんがあるんだよ」
恋愛なんかより。あのときの紅の顔を思い出したら、腸が煮えくり返ってきた。その場限りの浮ついた気持ちなんかじゃない。そんなの、あんただって分かってるくせに。
「かっこ悪いよ、アスマ! 紅、泣いてたんだよ? 女の子泣かせてまで証明しなきゃいけないプライドなんかクソだよ! いいよ、紅にはもっと相応しい人がいるから! さっさと行っちゃえ、バカアスマ! 二度と帰ってくんな!!」
涙がこぼれそうになって、最後は完全に言い逃げだった。アスマの顔も見ずに猿飛家を飛び出して、一目散に走り出す。
自然に足が向かったのは、ゲンマのアパートだった。
明かりはついてる。ゲンマが、いる。
告白されたあと、ゲンマはアパートの合鍵をくれた。要らないって言ったのに、俺だと思って持っといてって冗談っぽく言われた。バカ。恥ずかしすぎる。絶対、本気のくせに。
しばらく近くの路地で悶々と悩んだけど、やっぱり会いたくなって部屋の前まで行った。呼び鈴を鳴らすとゲンマはすぐに出てきて、夏らしい部屋着に着替えていた。それでもいつもみたいに、口には千本を咥えてる。
ゲンマは私を見て、ちょっと驚いたようだった。多分、泣いてたの、バレてる。
「……鍵あんだから、勝手に入ればいいのに」
「やだ。恥ずかしい」
目線を落としたまま小さく呟くと、ゲンマは笑ったみたいだった。ドアを大きく開けて、肘で押さえて促す。
「入れよ。ちょうど飯食うとこ。カレーだから一緒に食うか?」
「……うん」
お腹なんか空いてない。中に入ってゲンマがドアを閉めたら、私はたまらなくなってゲンマの背中にしがみついた。
歩き出そうとしたゲンマが、足を止めて静かに聞いてきた。
「どうした?」
「……ゲンマは、急にいなくなったり……しない?」
こんなことを聞かれても、ゲンマはきっと困る。でも、聞かずにはいられなかった。
約束できない私に、こんなことを聞く資格だってないのに。
でもゲンマは、いつもの調子で答えてくれた。
「そりゃあこんな仕事だから、絶対ないとは言えねぇけど。でもお前のところに、いつも帰りてぇって思うよ。死ぬときまでは絶対、お前んとこに帰るのを諦めねぇよ。そうやってここまで来たからな」
当たり前のようにそう言ってくれるゲンマの言葉に、心臓が狂おしいくらい高鳴る。ゲンマはこうやって、私を生きる理由にしてくれる。それが苦しく思えても、やっぱりそばにいたいって思える。私だって、ゲンマのところに帰りたいって思う。
紅にだってきっと、いつかそういう人が現れる。それがアスマじゃなかったっていうだけだ。絶対に、大丈夫だ。
――それがアスマなら、良かったのに。
「何があった?」
急かすでもなく、追い詰めるでもなく、ただ淡々と聞いてくれる。それがどれだけ、私を安心させるかきっとゲンマは分かってない。
私はゲンマの背中にきつく顔を擦り付けて、囁いた。
「……私、何もできない。大事な人がいても何もしてあげれない。お節介なだけで何も変えれないし止めれない。私、ほんとにダメだ……」
アスマや、紅だけじゃない。カカシも、オビトもリンも、アイもサクも、母さんもばあちゃんも。サクモおじさんにだってもっと、何かしてあげたかった。
私は一体、大事な人たちに何ができたっていうんだろう。
「……あのな」
ゲンマの声は、ため息混じりだった。慌てて顔を上げると、こちらを見下ろすゲンマが呆れた様子で千本を少し揺らしている。ちょっと、胸が痛かった。
「昔から言ってんだろ。結果がどうなるかなんて、どうにもできねぇんだよ。できることをやったら、あとは放っとくしかねぇんだ。結果をどうこうしようとするから悩むんだよ。どうにもなんねぇことずっと引きずってたら、お前がいつまでも苦しいだけだぞ」
ゲンマは昔から、同じことを言ってる。
私がしんどいときは、どうにもならないことをどうにかしようとしているときだ。
ゲンマはいつも、そのことを思い出させてくれる。何度でも。何十回でも。
たとえ呆れても、諦めないで、何回でも。
涙が溢れて止まらなくなった私にそっと向き直って、ゲンマはまたゆっくり頬を撫でてくれた。その指先がひどく優しくて、胸の奥までくすぐられるようで。
この人は、どれだけ、私を好きにさせれば気が済むんだろう。
「俺だってこのままお前にキスしたいけど。お前、絶対かわすだろ」
「あっ、当たり前でしょ!!」
慌てて身体を退こうとしたら、腰を抱き寄せられてゲンマの腕の中に収まってしまった。ドキドキしながらゲンマの顔を見上げると、すごく優しい眼差しで微笑んでいた。
それだけで、心臓がぎゅっとなる。
「な? それはお前が決めることだから。だから俺は、こうやって抱きしめて話聞いてやるしかできねぇんだよ。嫌われたくねぇから、キスしねぇの。どんだけお前とキスしたくても、俺は我慢を選んでんの。それは俺の選択だ。俺が決める」
息苦しくて、声も出ない。ようやく絞り出せたのは「バカ」の一言だけで、私はゲンマの首元に顔を擦り付けて泣きじゃくった。ばか、ばかばかばか。好き。口には出せなくても、大好き。
一瞬一瞬を、誰もが選び取りながら生きている。私の選択も、ゲンマの選択も。アスマも、紅も。そのことを思い悩んでも仕方ない。
ゲンマの気持ちに応えられない自分も、それでも会いに来てしまう自分も。
アスマがどうするかは、アスマが決めることだ。
ゲンマのカレーは、やっぱり具材がゴロゴロ入っていてすごく美味しかった。