182.「きらい」


 ゲンマが、好きだって言った。私のことがずっと好きだったって。いつから? そんなこと分からないし、考えたって仕方ない。もしもこれが、ばあちゃんが自殺する前だったら? 母さんが死ぬ前だったら? きっと何も変わらない。たとえすんなり付き合っていたとしても、結局私はこうなっただろうから。
 私は、誰とも結婚なんかしないから。

 額同士をくっつけて、ゲンマがすぐ目の前で潤んだ熱っぽい眼差しを向けてくる。私の頬を包み込む手のひらが熱くて、全身に汗がにじむ。外の任務が終わってそのまま来たのか、今になって初めてゲンマから少し汗のにおいがするのが分かった。

 汗も全部、私、ゲンマの匂いが大好きだ。そう思ったらまた、涙が止まらなくなった。

「泣くほど嫌かよ」
「……ばか……」
「泣くほど嬉しい?」
「…………ばか」

 こんなときに、茶化して。

 好き。大好き。すごく真剣なときも、冗談混じりのときも、全部が優しくて、愛おしくて、すごく安心する。どきどきする。
 こんなに大好きなのに。恋人には、なれない。

 ゲンマは絶対に、その先を考えてくれるから。



 ゲンマが、吐息みたいな声で私の名前を呼んだ。それだけのことで、目眩がするくらい身体の奥が熱くなった。いつの間にこんなに、好きになったんだろう。
 こんなに好きにさせといてって、ゲンマは言った。そんなの、そっちだって一緒じゃん。

 そうこうしているうちに、ゲンマの顔がゆっくり近づいてきて、私はハッとした。まずい。キスなんかしたら、絶対にダメだ。ゲンマの両手に固定された顔を、私はできるだけ精一杯逸らした。
 ゲンマは私を無理に自分のほうに向かせたりしなかった。でもその代わり、私の頬に一瞬だけ柔らかい何かが触れた。

 それがゲンマの唇だって気づくのに、そんなに時間はかからなかった。

 あっという間に肌が粟立って、涙なんか引っ込んだ。震えながらゲンマを見ると、これ以上ないくらい優しい目をして私の顔を覗き込んでいた。
 ほっぺに、キス、された。ゲンマに。猫じゃない。犬でもない。人。しかも、ゲンマに。

 混乱して、声も出なかった。

「生きてるか?」

 身動きひとつ取れない私を見て、ゲンマはちょっと困った顔で笑った。一気に現実に引き戻されて、身体中から汗が噴き出す。何で、そんなに涼しい顔してるのよ。

「ば、ばかっ!!」
「嫌だった?」
「ばっ……」

 何も言えなくなって、口ごもる。

 嫌じゃないから。だから困ってるのに。

 すごく意地悪な顔で、でも目はすごく優しくて。

 私の大好きなゲンマだって、思い知らされて。

 また涙が出てきて子どもみたいにしゃくり上げる私の頬を、ゲンマが指先で何度も撫でてくれた。好き。大好き。ほんとはこのまましがみついて、ゲンマの匂いも温もりも、胸いっぱいに感じたいのに。

、好きだよ」

 これまで、何も言わなかったくせに。もう、息を吐くように好きって言ってくる。身体中が熱くて、こっちは息をするのもやっとだっていうのに。
 ずっと私の顔に触れているゲンマの手を退かそうとして握ったら、また心臓が跳ねて息が詰まりそうになった。私、本当にどうしちゃったんだろう。

「やだよ……もう、言わないで」
「嫌だ。もう隠さないって決めた。、好きだ」
「……私なんか、好きになったってしょうがないよ」

 するとゲンマは、ちょっと怖い顔をした。こんなに近くで、触れ合って感じるゲンマの気持ちは、いつもよりずっと強烈に私の胸を刺す。

「俺が惚れてる女を、そんな風に言うな」

 ゲンマの一言一言に、心臓が壊れそうになる。そんな風に、思ってもらう資格なんかない。応えられないくせに繋ぎとめようとした、私は弱くてズルい女だ。

「だって、私……結婚したくないし、子どもも欲しくない。そんなやつに、ゲンマが付き合う必要ないよ。ゲンマ、絶対いいパパになるもん」
「そんなもんなりたくない。お前がいなきゃ意味ない」

 即答だった。分かってたけど、困る。

「なりたくないじゃない。ゲンマ、一人息子じゃん」
「だから何だよ」
「跡継ぎとか、どうすんのよ」
「お前が言うか」
「うちは……いらない」
「じゃあうちもいらねぇよ。そもそも本家じゃねぇんだから、誰も気にしてない」
「私が、気にする……」

 ゲンマが気にしなくても。後継ぎなんか、要らないとしても。おばさんやおじさんは、孫が待ち遠しいんじゃないの? イクチの両親はもういないし、ネネコちゃんは孫みたいなもんだって言ってた。でもやっぱり、実の息子の子どもを望んでるんじゃないの? あんなに温かい家族が、続かなくていいの?
 それが私のせいだなんて、耐えられない。

「そんなの、いいわけない。今だけじゃなくて、ちゃんと先のこと考えて」
「考えてる。十年お前のそばにいた俺の結論がそれなんだよ。そりゃ、俺は忍びだから、お前のこと優先できないときだってある。でもどうやって誰と生きるかなんて俺の自由だ。そんなもん、お前にだって指図されたくない。俺はお前と生きたい。この先もずっと」

 まるで、プロポーズみたいに。
 私たち、付き合ってもないのに。

 分かってるよ。ゲンマは、ずっと先のことまで考えてくれてるって。
 そんな誠実な人に、私なんかが応えられるわけないでしょ。
 いついなくなるか。母さんやばあちゃんみたいに、糸でも切れたみたいに、急にいなくなるかもしれないのに。

 私は、何も約束できない。

 ゲンマの手を引き剥がしたくて握ったのに、そのまま動けなくなって、ただ至近距離で見つめ合う。心臓の音が聞こえないか心配になるくらい、うるさく脈打ってる。

「さっきから俺と付き合えない理由を並べてるみたいだが、俺のことが好きじゃないって一言も言わねぇな」

 ゲンマが見透かすように片眉を上げたのを見て、私はハッとした。慌てて身体を退こうとしたけど、ゲンマは私の顔をしっかりつかんでいた。

「ゲンマなんか……きらい」
「……遅ぇよ、アホ」

 すごく優しい声でそう言って、ゲンマがまた額を擦り付けてくる。くすぐったくて、私は思わず笑ってしまった。

 好き。ゲンマのことが、大好き。

 気持ちが溢れて、涙がこぼれて、頬を包み込む私たちの手を濡らした。