176.シミュレーション


 ここのところ、をまったく見かけない。

 聞けば、単独任務でしばらく里を離れているらしい。もちろん、情報部に聞いたのは俺ではなくライドウだ。頼んでもいないのにわざわざ俺に耳打ちした。お節介なんだよ、どいつもこいつも。

 タイミングが悪すぎる。よりにもよって、あんなことがあった直後に。俺はストレスのはけ口のようにに最低のことを言ったし、は俺の雑言を受けて、泣きながら「大嫌い」と叫んで俺の前から消えた。

 嫌われて当然だ。だが、当然だから仕方ないと諦めることはできない。謝って、土下座でも何でもして、伝え続けるしかない。
 お前のことが大切だと。絶対に大切にすると。どの面を下げてと言われても。もう、絶対に繰り返さないから。

 言葉それ自体に大して意味はない。行動で示していくしかない。
 が、そもそも会えないことには話にならない。

 日々の激務をこなして、帰りにの家の前を通る。明かりはついていない。ここ一か月ほど、全く。
 は諜報員だ。極秘で長期任務くらいあるだろう。そう自分に言い聞かせて、今は目の前の仕事に打ち込む。

 そんな俺の前にサクが現れたのは、五月も下旬に差しかかった頃だった。

「ゲンニャ!」
「わっ! なんだ、サクか?」

 突然頭の上に重量物が体当たりしてきて、思わずふらついた。護衛部の事務室でひとり事務作業に追われていた俺は、手元の書類が乱れたことに慌てて非難の声をあげる。

「何だよ、順番分かんなくなるだろうが! 何の用だよ!」
が死んじゃうにゃ!」

 涙声でサクが放った一言に、俺の心臓は止まった。

 いや、正確には、止まったはずがない。が、本当に止まったのかと思った。心臓も、息を吸い込む肺も、思考も全てが、一瞬のうちに静まり返る。
 身体中の熱が一気に引いて、冷水でもぶっかけられたように容赦なく冷えていく。血の気が引くってこういうことなんだなと、どこか他人事のように感じた。

「……今、何て言った?」

 自分の声が、やけに遠くに聞こえる。サクはそんな俺の頭にしがみついたまま、尻尾でペチペチとこちらの顔を叩いた。

が死んじゃうにゃ! すぐに病院に行くにゃ!」
「病院……何があった? 報告は済んでるのか?」
「ヒルゼンが連れて帰ってきたにゃ! 今解毒の治療中にゃ! すぐ行くにゃ!」

 解毒。毒にやられたのか。三代目が連れ戻って治療中なら、俺が下手に関わらないほうがいいんじゃないか。今回の単独任務が三代目直々の命なら、俺が関わることでかえって迷惑をかけるかもしれない。は諜報員だ。俺が知るべきでない情報に関わることなんて、きっと数えきれないほどある。

「ゲンニャ!」

 サクの鋭い声で、俺は我に返った。頭でグルグル考えたところで仕方ない。が危険な状態にあるというのなら、俺は今こんなところで書類整理なんかしている場合じゃない。
 何より、が生まれたときから兄妹のように育ったサクが、俺を呼びに来てくれた。

 サクを肩に載せて木の葉病院に向かうと、サクは正面ではなく裏口から入るように言った。後ろめたさはあったものの、俺は黙って指示に従った。
 は一般病棟ではなく、隔離病棟にいた。その中でもガラス越しの処置室に横たわり、防毒マスクをつけた医忍たちが周囲を忙しなく動き回っている。

 処置室の前には、戦闘装束に身を包んだ三代目が立っていた。

「ゲンマ、なぜここに」

 振り向いた三代目は驚いた様子だったが、俺の肩にいるサクを見て納得したようだった。気恥ずかしさと後ろめたさ、何よりへの気持ちが溢れて、俺は舌足らずに捲し立てた。

の容体は……」
「応急処置は済んだが、シビが今、里を離れている。連絡は入れてあるが、戻れるのは明日になるだろう。それまでが山場になる」

 三代目の言葉を聞いて、本当に危険な状態ということが分かった。上忍のシビさんは毒の専門家だ。つくづく、タイミングが悪い。シビさんが里にいれば、きっと何とかしてくれたのに。きっと。

「どうして……こんなことに」
「それは話せん」

 ようやく絞り出した俺の問いを、三代目はすぐさま切り捨てた。当然だ。機密に関わることならば、俺がここにいることさえ処分の対象になる。
 だが三代目は、厳しい面持ちでまっすぐにこちらを見て言った。

「事情は話せぬが、私の責任だ。ゲンマ、すまない」
「やめてください! 俺は……の、何でもありませんから……」

 尻すぼみに返す俺を見て、三代目は僅かに表情を緩めた。

の『何でもない』者ならば、今ここにはおるまい。サクがお前をここに連れてくることもない。お前はもっと、の隣に相応しい者として己を誇ってもよいのではないか?」

 胸が熱くなると同時に、どうしようもなく自分が恥ずかしくなった。俺はの隣に相応しくない。不器用で、短気で、卑屈で、臆病で、頑固で、図体だけデカくなった、子どもだ。
 それでも、の隣にいたい。何度、己の醜さに潰れそうになっても。

「私は行かねばならん。お前も戻って少し休め。仕事が立て込んでおろう」

 明日までが山と言われ、シビさんがそれまでに確実に戻ってくる保証もないのに、どうやってここを離れられる? 頭の中が、最悪の想定でぐちゃぐちゃになる。
 忍びである以上、楽観的に作戦など立てられない。常に最悪の事態を想定し、シミュレーションしながらその最悪を避けるために手を尽くす。そうやってここまで生き延びてきたし、これからも淡々とやるべきことを繰り返すだけだ。でも。

 のことを考えたら、シミュレーションなど何の意味もない。

 目の前のことで、頭がいっぱいになる。

 会いたい。絶対に会いたい。ガラス越しじゃない。眠り続ける姿じゃない。目を合わせて、他愛ない話をして、笑い合って、信じて背中を預け合って。

 触れられなくてもいいなんて、嘘だ。触れたい。触れられたい。抱き合いたい。

 あれが最後だったなんて、絶対に御免だ。

 処置室の前で、冷たいベンチに腰を下ろして。頭を抱えて、いつの間にか眠っていたらしい。ふと気配を感じて顔を上げると、サングラス越しにも無表情なのがよく分かるシビさんが立っていた。

「毒は除去した。あとはの体力次第だ。お前は仕事に戻れ」

 張り詰めた糸が、ぷつりと切れたような。俺は完全に呆けてしまって、しばらく身動き一つ取れなかった。三代目に報告に行くと告げてシビさんが去ったあとも、シビさんが立っていた場所をぼんやりと見つめることしかできなかった。

 俺の肩から飛び降りたサクが、処置室のガラスにへばりついて中を覗いている。つられるようにして隣に並ぶと、は相変わらず眠ったままだったが、その顔色は昨日より落ち着いているように見えた。

 ようやく、自分が生きていることを実感できた。