175.別れ


 身体が、重い。瞼を開けようとしても、張り付いたみたいに動かない。

 ようやく目を開けると、見慣れない天井が見えた。周りを見渡そうとしたら、全身に痺れが走る。悲鳴をあげたつもりが、喉が乾いて声が出なかった。

「気がついたか」

 不意に声が聞こえてそちらを見ようとしたけど、また身体中が痛んでうまく動けない。やっとのことで首を巡らせると、窓際に大柄の人影が見えた。
 自来也さんだった。

「……あ、」

 安心して、涙が出そうになったけど、声が出せなくて浅く咳き込んだ。自来也さんが慌ててこちらに近づいてくる。

「無理をするな。水でも飲むか?」

 小さく頷いたつもりだけど、伝わっただろうか。
 自来也さんはどこからか水の入ったコップを持ってきてくれて、私の頭の下に腕を差し入れた。そこでようやく、自分が木の葉病院の一室にいるということに気づいた。

「少しだけ起こすぞ」

 ゆっくりと頭が持ち上がり、口元にコップが当てられる。また痺れるような痛みが走ったけど、唇に水が触れて生き返るような心地だった。
 でも、うまく飲み込むことができずに私は勢いよく咳き込んだ。

「焦るな。ゆっくりでいい」

 焦るな。かつてそう言葉をかけてくれた人たちの声が、頭に響く。強張った身体に、柔らかな光でも差し込んでくるみたいだった。

 私、生きてる。

「死んだかと思ったにゃ」

 突然耳元で聞こえた声に、ハッとする。枕元に寝そべるサクが、大きくアクビをしながら耳の後ろを掻いた。
 その様子を見て、自来也さんが苦笑する。

「こいつ、ずっとお前にくっついて離れなかったぞ。素直でないところはお前にそっくりだ」
「黙ってろにゃ」

 片目を開けて自来也さんを睨みながら、サクが不機嫌そうに尻尾を振った。少し水を飲んで生気を取り戻した私は、ベッドに横たわったまま慌てて声をあげた。

「自来也さん、大蛇丸さんが……」
「分かっておる」

 自来也さんの声は静かだった。こちらに背を向け、カーテンに閉ざされた窓のほうをじっと見つめている。辺りの静けさを鑑みても、きっと夜更けだろう。
 あれから、どれくらいの時間が経過したのか。

 蛇に締め付けられた痛みと、じわじわと暗闇に追い詰められていくような感覚。
 思い出すだけで、背筋が凍るようだった。


「……はい」

 これまで聞いたことのない、沈みきった声だった。四代目を失ったときよりも、ずっと。

「俺はここを離れようと思う。お前の成長を見届けられないのは残念だがな」
「……どういう、意味ですか?」

 何を言っているか、分からない。自来也さんはそもそも、諜報活動のために里を離れている期間が長い。多くて年に一度、顔を見られればいいほうだ。
 でもきっと今は、そういうことを言ってるんじゃない気がした。

「こいつ、大蛇丸と刺し違えるつもりにゃ」

 サクは軽い口調でそう言ったけど、私は心臓が壊れそうなくらい激しく脈打った。あれから、どうなったの。確か、ヒルゼン様の声がして――。

 振り向いた自来也さんは困ったように笑ったけど、その笑顔にいつもの覇気はなかった。その顔を見て、決定的に何かが変わったのが分かった。

「大蛇丸さんに……何が、あったんですか」

 全身が痛むのが、毒のせいなのか、寝込んでいたせいなのか、それとも別のものなのかは分からない。それでも何とか身体を動かして、横たわったまままっすぐに自来也さんを見る。

 自来也さんは私の目を見て、しばらく悩んでいるようだった。それでもやがて、小さく息をついてから、話してくれた。

「俺はあいつと、子どもの頃から一緒だった。あいつは天才肌で、俺は落ちこぼれ。いつもすましたあいつが気に食わず、勝負を挑んでは負け、惚れた女を振り向かせることもできなかった。だがあいつは、純粋なやつだった。物事の成り立ちに思いを馳せ、世界の理を知ろうとする。俺はあいつに追いつきたくて、惚れた女を振り向かせたくて、がむしゃらに修行に明け暮れた」

 自来也さんが茶化して女の人の話をすることなんて、数え切れないくらいあった。でも、そうじゃない。きっと本当に好きになった人は、たった一人しかいないんだ。
 頭の中に、ゲンマの顔が浮かんだ。どうしようもなく、苦しくなった。

 同時に思い出されたのは、カカシだった。天才肌で、いつもすました顔で、でも本当は、とても純粋で。
 子どもの頃から追い続けてきたカカシが、もしも誤った道に進んでしまったら?

「あいつがおかしくなったのは、戦争で両親を殺されてからだ。それからのあいつは何かに取り憑かれたように研究に明け暮れた。動物実験さえ取り扱いには厳重な注意が必要とされる木の葉で、人体実験の必要性を説いたこともあった。三代目と澪様が猛反対し、その場は収まったように思えたが――まさか、こんなことになろうとはな」

 そういうことだったんだ。あのとき大蛇丸さんは、ばあちゃんはこのことを気に入らなかったと言った。里で人体実験を反対されて、おとなしくなったと見せかけて、里の外で犯罪に手を染めながら実験を進めた。
 死んだ両親に、会いたかったから?
 そのために、罪のない子どもたちを?

「あいつは純粋すぎたために、何が過ちであるか分からなくなってしまったんだろう。このままでは世界さえ滅ぼしかねない危険な存在になってしまう。あいつには、それが可能なだけの力がある」
「でも……ヒルゼン様は? あのとき、実験所にヒルゼン様が来て……」
「三代目も止められなかったそうだ。それはつまり、木の葉の誰も奴には勝てないということを意味している」
「じゃあ、どうすれば! あんな非人道的なこと、止められないっていうんですか?」
「――だから、俺が行くんだ」

 自来也さんの目はもう迷っていなかった。先ほどのサクの言葉が蘇ってくる。自来也さんは、大蛇丸さんと刺し違えるつもりだと。
 刺し違えてでも、止めるつもりだと。

「あいつは天才だ。対して、俺は落ちこぼれ。それでも俺たちは確かに同志だった。あいつが道を踏み外したなら、俺にできることは全部やる」
「でも! それでもし、自来也さんが……」

 絞り出した声が震えて、きつく唇を噛む。自来也さんは軽快に笑って私の頭を撫でた。少し首が軋んで痛かったけど、自来也さんに撫でられることは、昔ほど嫌じゃなくなっていた。

「縁起でもないことを言うな。ただで死ぬつもりはない。俺は諜報員だ。できることというのは何も、刺し違えることだけではない」

 自来也さんはきっと、後悔と、覚悟と、希望を、全部ひっくるめて出ていくつもりだ。
 私はまだ子どもで、本当に非力だ。

 ――あのとき何も、できなかった。

「お別れだ、

 涙がこぼれて、声にならなかった。

 諜報の基本は、全部、自来也さんから教わった。
 自来也さんがいなければ、今、私はここにいない。

「俺のために泣いてくれるのか。嬉しいのう。だがお前は俺ではなく、もっと身近な者に目を向けてやれ」

 何の話か分からなくてぼんやり目を開く私に、自来也さんは少し意地の悪い顔でニヤリとした。この顔が、嫌いじゃないことに気づいた。

「ゲンマが何度も見舞いに来ていたそうだ。ここは隔離病棟だからな、誰が中に入れたかは分からんが」

 突然ゲンマの名前が出てきて、別の意味で心臓が跳ねた。ゲンマが何回も来ていた? ここって隔離病棟なの? 私、どれくらい寝てた? 何で自来也さんが、ゲンマのことなんか言うの?
 頭の中でグルグル疑問が巡って何も言えないでいる私に、自来也さんは呆れたように微笑む。

「約束してくれ、。お前は凪以上に良い女になる。だがな、良い女の条件は、素直なことだ。意地を張るのはベッドの中だけにしろ。それもスパイス程度にな」
「……下ネタやめてください。未成年なんで」
「お前ももう十六だろう? 大人など、あっという間だぞ」

 クツクツと笑う自来也さんの優しい眼差しが、私の胸を温かくも苦しく締め付けた。これが最後かもしれない。その思いが、息を詰まらせた。

「お前と過ごした時間は楽しかった。またいつか、平和な世界で会おうのう」

 またいつか。平和な世界で。その言葉は希望のはずなのに、今の私には虚しく響いた。

 自来也さんは、そのまま病室を出ていった。