174.刻印
「ここで何をしている、大蛇丸」
「何って、説明の必要がありますか? どうせもうお気づきでしょう?」
大蛇丸はそう言って冷酷に笑った。気づいている。私がここまで事態をあえて見過ごしていたことも、全て。
苦々しい思いで、足元のを見やる。息はあるが、意識はなさそうだ。
私が、事態をここまで放置したがために招いたことだ。
「サク、を連れて戻れるか?」
「無理にゃ。毒が回ってチャクラがないにゃ。今逆口寄せしたらが死ぬにゃ」
こんなときに。思わず歯噛みした私を見て、大蛇丸がニヤリと笑って唇を舐める。
「どうします? 澪様の孫を見捨ててもここで私を止めるか、その子の命を優先するか」
「ヒルゼン! こいつが何をしてきたか、お前だってもう分かっているだろう。ここで殺さなければ、こいつは必ず木の葉に仇為す者となるぞ」
金棒として傍らに控える猿魔が、鋭い口調で私を奮い立たせる。それでも私は、即断することができなかった。
私のせいだ。愛弟子が人体実験などという非道に堕ちたことも、戦友のたった一人の孫娘をこうして危険に晒したことも。
今ここで止めなければ、大蛇丸はいずれ必ず木の葉に災いをもたらす。
里長として、見過ごすことはできない。
分かって、いるのに。
「……の手当てが、先だ」
「ヒルゼン!」
の傍らに膝をついた私を、猿魔は厳しく非難した。その声を遮るように目を伏せて、横たわるの肩に腕を回す。
大蛇丸は愉しげに喉を鳴らしてみせた。
「それでこそ火影様。自分のせいで死にかけている娘を放ってはおけませんよね」
絞られるような胸の痛みに、唇を引き結ぶ。火影として、師として、友として、夫として。私のしてきたことなど誤りばかりだったのではないか。何をしてやれた。澪に、ビワコに、ミナトに、綱手に――そして、大蛇丸に。
どうすれば、もっと違う道を歩めた?
「サク……医療部に連絡を入れてくれ。私が連れ帰る」
「必ずにゃ。死なせたら許さないにゃ」
「分かっている。行け」
サクが煙のように姿を消すのを見届けたあと、の身体を引きずって立ち上がる。いつの間に、こんなにも大きくなったのか。今でも思い出せる。凪の腕に抱かれた、赤子の頃の姿を。
あの孤高の忍猫が、死なせたら許さないと言った。
やはりは、本人たちがどう思おうが、確かに愛されている。
「またお会いしましょう。猿飛先生」
低く湿り気のある声だけを残し、背後の気配が消えた。静まり返った冷たい空気の中、猿魔の苛立たしげな唸り声が響く。
「いつか後悔するぞ、ヒルゼン」
私は答えなかった。答えられなかった。私はまた逃げたのだ。を言い訳にして、いつか必ず向き合わねばならない結論を先延ばしにした。
「クソ……いい、娘を貸せ。急がなければ死ぬぞ」
「……すまん、猿魔。頼む」
金棒から大猿に戻った猿魔が、を軽々と担ぎ上げて外に出る。洞窟の外はもう薄暗かった。夜空に浮かぶ鋭い三日月が、まるで蛇のように私たちを見下ろしていた。
***
三日月が、一番好きだ。まるで蛇の瞳孔みたいで、不思議と心が落ち着く。
子どもの頃は、好きじゃなかった。でも、あの人の下で学び、慕い、いつか追いつきたいと願ううちに、いつしか三日月を見上げるのが好きになった。
特別上忍になって三か月。若すぎるという声を黙らせるために、これまで以上に成果を出すことを意識した。評価は、実力で勝ち取る。七光りと言われる猫使いなんて、すぐに追い抜いてやる。
今夜は、特別美しい夜だ。鋭く弧を描く月に、墨を流したような空。このまま溶けてなくなりそうなほど、幻想的な夜だと思った。
「……大蛇丸先生?」
任務帰りの、静かな路地裏。ふと気配を感じて振り向けば、いつものように不敵に微笑む師が立っていた。ここしばらく外での任務が多く、顔を合わせるのはずいぶん久しぶりだ。
「戻ってたんですか? お元気でした?」
大蛇丸先生は少し黙っていた。最後に会ったのは半年近く前だから、私が特別上忍になったことも知らないかもしれない。何と言えばいい? 褒めてくれる? 自分から言い出すのも、ちょっと恥ずかしいな。
「アンコ、今日はお別れを言いに来たの」
「え?」
大蛇丸先生はいつも唐突だ。わけが分からず呆然とする私の前で、淡々とあとを続ける。
「少し遠くに行かなきゃいけなくなってね。しばらくお別れよ」
「そんな……任務ですか? それって、これまで以上に帰れないってことですか? 私、特別上忍になったんです。大蛇丸先生の下で学んだことが評価されたんです。私、頑張ってます。これからも先生の弟子として、先生が誇れるような立派な忍びになります」
大蛇丸先生は少し目を細めて笑った。私の好きな笑い方だった。
「あなたに昔、約束したことがあったわね。お別れの前に、渡しておかなきゃと思って」
「え、何ですか?」
私が瞬きをした瞬間、大蛇丸先生の姿が消えた。
違う。気づくと先生は私の目の前にいて、私の肩をそっと抱き締めていた。
どきりと心臓が跳ねると同時に、首筋に焼けるような痛みが走る。
先生に噛みつかれたのだと気づいた瞬間、全身が燃えるように熱くなった。
「いつかあなたがこの力を使いこなせるようになったら、私のもとに来なさい。そのときまで、お別れよ」
耳元で囁かれて、頭がふわふわと揺れる。かと思えば、噛まれた首筋に激痛が走って思わずその場に膝をついた。
「大蛇丸……先生……」
「さよなら、アンコ」
それは記憶にある、優しい先生の声。
私はそのまま、意識を失った。