173.罪
サクはあの夜から、任務のときに姿を見せることはなかった。片割れのアイを亡くして塞ぎ込み、言葉少なに軒先にたたずむ後ろ姿を見て、私から何かを強いることはしないと決めた。サクがいつかまた手を貸してくれる日が来るか、それともこのまま私のもとを去るか。
生まれたときから一緒だったサクだけど、サクの生き方は、サクが決めればいい。もしくは戦いに手を貸してくれなくても、時々そばにいてくれたら、それだけでいい。
――そう、思っていたのに。
「馬鹿、何でこんなときに来るのよ! この人はあんたたちを変な実験台にしようとしてんのよ!?」
「馬鹿はお前にゃ。さっさと戻れば良かったにゃ」
サクは軽い調子でそう言ったけど、視線は大蛇丸さんから一瞬も逸らさない。大蛇丸さんはこの状況を嘲笑うかのように冷たく目を細めた。
「ちょうどいいわ。とその忍猫。お前は確か、澪の相棒ライの血を引く者。素材としては十分ね」
「調子に乗るにゃ、大蛇丸。ヒルゼンがすぐに来るにゃ。お前もここまでにゃ」
「それはどうかしらね」
大蛇丸さんの台詞が終わるよりも先に、サクが飛び出した。チャクラをまとわせた爪で素早く襲いかかり、大蛇丸さんの喉元を狙う。
低いうめき声と同時に鮮血が噴き出し、大蛇丸さんの喉が裂けた。
確実に、裂けたはずなのに。
折れ曲がった首の上で、その瞳孔が怪しく笑みを漏らした。
「スピードは十分。でも、甘いわね」
喉を裂かれたはずなのに。
人間らしからぬ相手と戦うことは、何も初めてじゃない。アイたちの攻撃を急所に受けても平然と動く忍びをこれまで何度も見てきた。まともじゃない人間を相手に、私たちの力は決定打に欠けるということは十分に分かっている。
でも大蛇丸さんは、これまで戦ったどの相手よりも明らかに人間離れしていた。
サクが爪を引くと、大蛇丸さんの引き裂かれた皮膚がズルリと動くのが分かった。中から現れたのは血まみれの真皮ではなく、まるで子どものような艶めいた表皮だ。
まさに、蛇の脱皮でも見ているようだった。
先ほど締め付けられた痛みで動けない私は、床に横たわったまま息を呑む。人間じゃない。今は大蛇丸さんがはっきりと蛇にしか見えなかった。
「気持ち悪いにゃ……」
こちらに退いたサクが身を低めて唸ったけど、相変わらずその目はまっすぐに敵を見据えている。身動きは取れなくても、何とか声は出せる。私はサクの背中に懇願した。
「もういい、サク! あんたは、早く……」
話しているうちに、みるみる身体の力が抜けていく。おかしい。この感覚、もしかしてさっき拘束されたとき、毒でも回ったのかもしれない。また視界がかすんで、サクの輪郭が遠ざかる。そうしている間にも、大蛇丸さんとサクが同時に動き出すのが見えた。
駄目だ、サク。私なんか放っておいて、逃げて。
あんたまでいなくなったら、私は。
瞼が重くなり、視界が閉ざされる。
そのとき背後から大きな爆音と、馴染み深い男の人の声が聞こえた。
「遅くなってすまん」
私の意識は、そこで途切れた。
***
初めから、分かっていた。
分かっていてもなお、知らぬ振りを続けた。
信じたくなかった。目を背けたかった。知らぬ振りをして、ずっとそばに置きたかった。
私の最愛の弟子。才に愛された男。最も期待をかけた教え子。
次の火影が選ばれるというとき、私は口を出さないことに決めた。ダンゾウの推薦を受けた大蛇丸と、複数の上忍たちの推薦を受けたミナト。大蛇丸は私の愛弟子で、ミナトは私の孫弟子だ。どちらも疑いの余地がないほど優れた忍びであり、現職の自分がどちらかの肩入れをすべきでない。私はかつて二代目様の指名を受けたが、私はその道を選ばなかった。
私がもしも口を挟めば、大蛇丸の肩を持つことになっただろう。
九尾事件の前から、各地で起きている幼児や赤子の誘拐事件については耳に入っていた。だが依頼を受けていない以上、勝手な捜査は越権行為になる。時々暗部に動向を探らせてはいたが、あくまで様子見程度。
それが九尾事件を境に動きが活発になった。不自然なほどに。これ以上の放置は困難なほどに。
九尾事件以降の誘拐事件は、恐らく陽動。ならばこちらも、相応の陽動で応じる。は特別上忍になったばかりで、隠密行動に秀でている。こちらの意図にはすぐ気づくだろう。さすれば必ず、期待以上の仕事をこなしてくれる。そしてその裏で、暗部の中でも最も信頼のおける者に隠された真実を探らせる。
これで何も出なければ、何もない。そのことを証明したかった。
だが、私の部下は優秀な者ばかりだ。隠された真実があるのなら、それを暴き出す。
先にたどり着いたのは、のほうだった。
「ヒルゼン、怪しい場所を見つけたにゃ。が残って様子を探ってるにゃ」
の忍猫、センだ。の誕生を澪に知らせに来たことを、まるで昨日のことのように覚えている。
ついに、自分を騙すことができなくなった。
重い腰を上げる私のもとに、追い打ちをかけるように続いて現れたのはサクだ。
サクは確か、アイを亡くしてから家に閉じこもっているという話だったが。
「ヒルゼン、急ぐにゃ! 嫌な予感がするにゃ!」
サクはライの孫猫に当たる。ライのように鋭い第六感を持っていても不思議ではない。
私は戦闘用の装束を手早く着込みながらサクに告げた。
「先に行け。すぐに追いつく」
「急ぐにゃ!」
サクが煙のように姿を消すのを見送ったあと、小さく息をつく。
私は、どうしようもなく弱い人間だ。
本当は、もっと早くに私こそが動くべき問題だった。
「遅くなってすまん」
薄暗い部屋を照らす青白い明かり。床に横たわる、身を屈めて唸るサク。
現れた私の姿を悠々と眺め、大蛇丸は狂気に満ちた眼差しでほくそ笑んだ。