172.実験


「大蛇丸……さん」

 目の前に現れたのは、紛れもなく大蛇丸さんだった。気味の悪い薄明かりの中、縦に伸びた瞳孔を細めて愉快そうに唇を歪めている。
 もしかして、カカシではなく大蛇丸さんがこの事件を追っていた? 全く気づかなかった。でも大蛇丸さんがヒルゼン様の教え子である以上、秘密裏に動いていても不思議ではない。

「勝手に動いてすみません……どうしても、気になって」
「そうでしょうね。あなたは気ままな猫、好奇心のままに動くのが性。命令通りはつまらない。そうでしょう?」

 大蛇丸さんは責めるでもなく、愉しげに笑みを深める。彼が私を糾弾せずとも、私の仕出かした行為が里の指揮系統を乱したことに変わりはない。
 それでも、聞かずにはいられなかった。

「ここは何なんですか? 過去に誘拐された子どもがここに連れてこられた形跡があります。こんなところで一体、何が起きて……」
「ここは見ての通り、実験所よ。あまり上手くはいかなかったけどね」

 その言葉に、違和感を覚える。上手く、いかなかった? それではまるで。

「ここまでたどり着いたご褒美に、教えてあげるわ。あなたのお祖母様はお気に召さなかったみたいだけど」
「……何を、言ってるんですか?」
「大切な人を、失った経験は?」

 大蛇丸さんの問いかけに、息を呑む。そんな経験、大戦を経ていて、ないわけがない。オビト、リン。母さん、父さん。それに、ガイのおじさんも。サクモおじさんだって、あの戦争がなければあんなことにはならなかった。オビトのおじさんやおばさんだって、第二次大戦で死んだ。

「……当然、あります」
「でしょうね。人の命なんて、儚いもの。仕方のないことと諦めればそれでおしまい。でも本当に、それは仕方のないことなのかしら? 避けられないものかしら?」
「……方法はあります。戦争を、二度としないことです」

 絞り出すように発した私の言葉を、大蛇丸さんは鼻で笑ってみせた。この空間で萎縮していた喉に、憤りからか少し生気が戻ってきた。

「戦争はなくならない。あなただってそんなこと、とっくに分かっているでしょう?」

 歯痒さに、唇を噛む。分かっている。簡単にはなくならない。でも。
 思い浮かんだのは、シスイの顔だった。

「諦めたらそれでおしまいです。あなたがそう言ったんじゃないですか」
「フフッ、そうね。らしい理想論ね。では、すでに亡くなった者は? 会いたいとは思わない?」

 何の、話をしているの。早鐘を打つ鼓動に急かされでもするように、汗が噴き出してきた。にじむ汗が冷気で冷えて、悪寒が全身に広がる。
 黙り込む私には構わず、大蛇丸さんはさらに続けた。

「私はこの不条理な世界で、全てを知り尽くしたい。愚かな忍びの世界にただ呑まれるだけなんてつまらないでしょう? そのための時間が必要なの。限られた時の中でできることなんて一握り。私は全てを知りたいのよ」
「何を、言ってるんですか!」

 大蛇丸さんは研究者だ。教え子のアンコだってその筋で特別上忍になったばかり。全てを知りたいという探究心が原動力なのは理解できる。でも大蛇丸さんが言っているのは、そんなことじゃない気がした。
 こんなところで、一体何をしていたのか。

「こんなところで……子どもたちを使って、一体何をしてたっていうんですか」

 やっとのことで問いかけた私に、大蛇丸さんの瞳が弓形に歪んだ。

「知りたい? そうね、忍猫の素材を収集しておくのも悪くないわね」

 素材。その文言で、確信する。

 この人がここで、誘拐した子どもたちを使って何をしていたか。

 腰の忍具ポーチに手を入れ、僅かに姿勢を落とす。三忍と呼ばれた上忍である大蛇丸さんにとって、私なんて赤子の手を捻るようなものだろう。本気にさせれば一瞬でやられる。
 でも大蛇丸さんは、きっとそうしない。

 センがこの実験所のことをヒルゼン様に知らせてくれたはずだ。すぐに応援を寄越してくれるか。それまでの時間稼ぎさえできれば。

「あなたは凪とは違うと思っていたけれど、所詮は血に縛られる者ね」

 突然彼の口から飛び出した名前に、目を見張る。そうか。自来也さんが母さんの同期なら、大蛇丸さんだって同じということか。
 所詮は、母さんと同じ。血に縛られる者。

 噛み締めた唇からは、鉄の味がした。

「私は縛られてるんじゃない。自分の意思で選んだ。あなたこそ、おかしな妄執に取り憑かれてるんじゃないですか? 死んだ人は二度と戻ってこない」
「あなたはまだ何も知らない子ども。世界はあなたが思うよりずっと広いものよ。これまでの実験のおかげで、再生のヒントはもう掴んでるの。まぁ、あなたには関係ないことでしょうけど」

 これまでの実験。そのために、幼い子どもたちを攫った。何人も、もしかしたら何十人も。
 恐怖よりも、やるせない怒りが勝った。これまでずっと、里の上忍として戦ってきたはずなのに。自来也さんと、もう一人の三忍と一緒に。

 いつからこんなことを、続けてきたというんだろう。

「少し遊んであげるわ」

 まずい。咄嗟にポーチからクナイを取り出したときには、大蛇丸さんの袖口から飛び出した蛇がこちらを目掛けて突進してきた。急いで後ろに飛んだけど、水槽にぶつかって身動きが取れなくなる。クナイを投げつけて横に飛び、その間に風遁の印を結ぶ。

「遅い」

 私が印を結び終わるより、大蛇丸さんの蛇が私の身体に巻き付くほうが速かった。腕ごと締め付けられて、指先の力が抜けていく。肺が押しつぶされるような感覚に、うまく息が吸えない。かすむ視界の中で、大蛇丸さんの冷酷な笑みが歪む。

「つまらないわね。あなた一人で何ができるというの? 口寄せでもすれば何か変わったかもしれないのに」
「……素材、なんて、言ってる人の前で……誰が……」
「そう。そこまで馬鹿じゃないってことね」

 大蛇丸さんはそう言って静かに目を閉じた。小さく息を吐いて、

「残念だけど、そろそろ行かないと。代わりにあなたを素材としていただこうかしら。忍猫と生きる中で、その力を得てきた最後のとして」

 駄目だ。もう、意識が遠のいていく。このまま、死ぬのかな。それともここに攫われてきた子どもたちと同じように、何らかの実験台にされて、そのまま。
 駄目だ、もう。もう。

 最後にゲンマに言った言葉が、大嫌いなんて。

 私、本当に馬鹿だ。

「しっかりするにゃ!!」

 突然背後から響いた唸り声とともに、拘束が緩んだ。そのまま床に倒れ込み、酸素を求めて衝動的に咳き込む。
 慌てて顔を上げると、赤い飛沫をあげながら裂けた蛇の胴体が吹き飛ぶところだった。

「お前は本当にアホだにゃ」

 私に背を向けて大蛇丸さんと対峙するのは、桜色の忍び服に身を包んだサクだった。