171.痕跡
「猫使いのお嬢ちゃんが動いてるみたいだけど、大丈夫なんでしょうね」
「餌は撒いてある。案ずるな。だがお前も、そろそろここを捨てる準備はしておくんだな」
三つ目の研究所。陽光の入らない薄暗い屋内は心地よい。足がつかないように各地を転々としてきたが、いよいよ潮時かもしれない。
「そろそろ、新天地を探してもいいかもね」
一人になった研究室の片隅で、ゆっくりと目を細める。あの猫使いは、私が一処に留まれはしないと言った。自分と同じだと。幼い私は内心反発したが、今思えばあの女の言う通りだった。所詮、私は蛇のように、より良い環境を求めて場所を変える生き方が性に合う。
でも、あなたはそうしなかったわね。
あなたは里で生きて、里で死んだ。
所詮あなたも、娘と同じ。里に縛られ、血に縛られ、掟に縛られて死んだ。
つまらないわね。
私は全てを統べてみせる。命さえも、全て。
***
おかしいとは思った。九尾襲撃から目立つようになった誘拐事件は、ゴロツキたちの仕業で間違いないだろう。でもそれ以前の誘拐は、場所や時期、条件などを鑑みても同一犯とは思えない。逆に、それだけ巧妙に隠された事件とも考えられる。
カカシたち暗部が追っているのは、この誘拐事件に関連しているのか。それとも全く別の、もっと大きな事件なのか。
「カカシも誘拐事件を追ってるみたいにゃ。でも昔の事件ばっかりにゃ」
レイには極秘にカカシを追ってもらった。アイとサクがいなくなってから、レイがよくそばについてくれるようになった。それまでは分からなかったけど、レイは第六感が他の忍猫たちより優れているし、隠密行動が一番上手い。ヒルゼン様もレイの気配に気づかなかったときは本当に驚いた。
だから今回のことも、レイが適任だと思った。カカシの力になりたくても、私が下手に動けばかえって迷惑をかける。だからカカシの動きを事前に確認し、そのルートはあえて避ける。その上で調査を続行し、ぎりぎりのラインを守ってあくまで陽動に徹する。
そんなことを半月ばかり続けた頃、センが持ち帰った情報が気になった。
「、二年前に攫われた子どもの痕跡を見つけたにゃ。奥に何かありそうにゃ」
「え、でも、それって……暗部の管轄じゃ」
「カカシの気配はないにゃ」
今、私が命じられているのはゴロツキたちの監視だ。あれから今のところ目立った動きはない。誘拐事件の一環として、ヒルゼン様に報告する?
でも。
「九尾の襲撃が何者かによって意図的に引き起こされたものであると知られれば混乱が起きる。迅速に痕跡を消す必要があった。悪く思うな」
私の頭の中に、あのときのヒルゼン様の声が響いてきた。四代目と何者かが戦闘した形跡を、何よりも早く消し去ったヒルゼン様。もちろん彼の言っていることは分かるし、上の判断に一介の忍びである私がとやかく言えることじゃない。
でも、確かに私の中で、ヒルゼン様への思いはかつて子どもだった頃とは違うものになった。
ヒルゼン様に報告すれば、その正体を確かめる前に消されるかもしれない。
あのときと同じように。
動悸を喉の奥で噛み殺しながら、思案する。どうする。これは仕事なのだから、上に従うべきだ。気になることは報告し、手出しはしない。頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。
放っておけないと、私の中で誰かが言う。
「?」
センに呼ばれて、私はゆっくりと顔を上げる。
「セン、案内して」
***
木の葉隠れの里から離れた岩山の麓にある、小さな洞窟。一見何の変哲もない自然の造形物のようだが、風の流れが少し違う。見れば足元に小柄なセンがやっと通れるくらいの小さな穴があり、中から逆口寄せで入ることができた。
湿気の多い、閉ざされた通路。重苦しい空気が肌を刺す中、センと共に慎重に進んでいく。どうしてこんなところに、こんな場所が。二年前に誘拐された子どもの痕跡が、ここに続いていたという。これで昔の事件はゴロツキたちの犯行である可能性が限りなくゼロに近くなった。こんな場所、あいつらに立ち入る手段はない。
人の気配はない。でも、そこはかとなく、嫌な予感がする。
「鼻がもげそうにゃ……帰りたいにゃ」
嗅覚はさほど強くない私でさえ感じ取れるほどの腐臭。センが尻尾を丸めるのも無理はない。センの首を撫でてから肩に乗せ、私は先を進んだ。
通路の突き当たりには、広々とした部屋があった。とはいえ籠もった腐臭や薬品のような刺激臭、澱んだ空気に満たされ、思わず口元を押さえる。センがたまらないとばかりにか細く鳴いた。
「何……これ」
青白いライトがうっすらと照らす中、大きな水槽はすでに空になっている。広い台や壁際の棚には試験管やフラスコが大量にあるものの、これも壊れて中身のないものがほとんどだ。
近くの床には何かを焼却処分したらしい、灰の山と一部の焦げ残った書類。よく見ればさらに奥には手術台のようなものがあり、周辺には黒い染みがこびりついている。
こんなところに、誘拐された子どもの痕跡があるっていうの?
心臓が破裂しそうなくらい、激しく脈打っている。
こんなの、完全に越権行為だ。
「……セン、ここはいい。戻って報告して」
「いいにゃ? ヒルゼンに怒られるにゃ?」
「仕方ない。勝手なことをしたのは私。いいから、行って」
「お前はどうするにゃ?」
「少し……調べたいことがある。大丈夫、すぐに戻るから」
「分かったにゃ」
センは顔をしかめながら大きく尻尾を振って姿を消した。一人きりのこの空間は、センでなくとも身を縮めたくなる。でもほんの少しでも、状況を把握しておきたかった。
九尾襲撃を境に、誘拐事件の様相が変わった。もしかしたら、あの事件に何か関係があるかもしれない。もしかしたら、アイの死に繋がる何かしらの情報が残されているかもしれない。
水槽や試験管、手術台などに残された染みを指先でなぞる。時間が経過しているが、恐らく血で間違いない。ここで何かしらの実験が行われていた。誘拐した、子どもを使って。
私の脳裏に、ネネコちゃんやチョウジくんの顔が浮かんだ。まだ見ぬ、クシナさんの息子も。
私情を挟むべきじゃない。諜報員がいちいちそんなことをしていたら、気が狂う。心を置き去りにして必要な情報を集める。それが諜報員だ。
分かって、いるのに。
「やっぱり来たのね」
不意に響いた声に、息が止まりそうになった。
気配はなかった。長い間、この場所が使われた形跡も、何も。
まるで影のように目の前に現れたその人を見て、私はしばらく呼吸を忘れた。