169.草臥
ゲンマは私の顔を見て、ちょっと怯んだみたいだった。多分、わたし今、泣きそうになってる。最低。自分の気持ちを認めることも、否定することもできずに曖昧な距離に留まって。
ゲンマがこうやって気持ちを顕にしようとしたら、反発して。
ゲンマは少し黙り込んだけど、また表情を強張らせて口を開いた。
「だってそうだろ。俺に会う時間は取れなくても、うちはに会う時間は取れるんだもんな。お前、年下が好みなのかよ」
ゲンマが何を言ってるのか一瞬分からなくて、頭が真っ白になった。でもすぐにまた身体中に熱がこもって、怒りともどかしさと悲しみが一気に押し寄せてきた。
震える手を握りしめて、問いかける。
「……何、それ。シスイはそんなんじゃないし、そんなのゲンマに関係ないでしょ」
駄目だ。もう、抑えられない。
何でこんなこと、言わなきゃいけないんだろう。
――私が、ゲンマを不安にさせてるからだ。
シスイのことなんか心配するくらい、不安にさせちゃってるんだ。
私が、曖昧な態度なんか取ってるから。
そう気づいたら、居ても立ってもいられなくなった。
「ゲンマなんか……大っ嫌い!!」
叩きつけるように怒鳴って、私はそのまま玄関に飛び込んだ。後ろ手に戸を閉めて、すぐに鍵をかける。
最後に、ゲンマの顔を見ることはできなかった。
ゲンマは追いかけてこなかったし、声も聞こえてはこなかった。
やがて、気配が遠ざかるのが分かった。
痛い。身体中がズキズキと疼いて、どうしようもなく痛む。
ようやく涙がこぼれ落ちる頃には、私はその場に崩れ落ちて膝をついていた。
大好きなゲンマに、大嫌いって言っちゃった。
だって、そうしないとずっと、ゲンマに迷惑かけるから。
そんなこととっくに分かってたのに、ズルズルと引き延ばしてここまで来てしまっただけだ。
「お前は本当にアホだにゃ」
顔を上げれば、潤んだ瞳にサクの姿がぼやけて映る。
「うるさい」
涙声でうめいて、私は玄関先に額を擦り付けて泣き続けた。
***
何で、あんなこと言っちまったんだ。
アパートまでまっすぐ帰り、部屋に入って鍵をかけたら、自己嫌悪で吐きそうになった。あんなこと、思ってないのに。は俺のことが好きだと、分かっているはずなのに。
特別上忍になって二か月。里の外からの依頼も多岐に渡り、後輩の指導を任されることも増えた。休みはほぼないし、夜も部下の報告書に目を通していたら日付を跨ぐことさえある。
情報部のはきっと、ずっとこんな生活を続けてきたんだろう。特別上忍になった今なら、なおさら。
会いたくて会いたくてたまらない。の懐で泣いて、朝まで俺の布団で過ごして、コトネの手で大人の女になったに腕を引かれて、もっと一緒にいたいとでも言うような熱い眼差しで見つめられて。
境界を引かなければまずいと思った。は今、誰とも恋愛などするつもりはない。俺たちは確かに惹かれ合っているのに、は家族のことで心の深いところを閉ざそうとしている。これ以上近づけば、俺は歯止めがきかなくなり、彼女はきっと俺から離れていく。
焦らずに、少しずつだ。が十八になるまでに、少しずつその厚い壁を切り崩す。そしてが結婚できる年齢になったら、もう一度、今度はちゃんと伝えるんだ。
好きだ。結婚してください、と。
今、会えないのは仕方がない。特別上忍になったばかりで、互いに物理的にも精神的にも負担が増えているのだから、慣れるまでは仕方のないことだ。いつかまた短い時間でも、互いの顔を見て笑い合う時間が取れるようになる。
そう、自分を納得させようとしていたのに。
「うちはシスイって知ってるか?」
別の火影護衛小隊所属のワラの口から、突然その名前が出てきた。会ったことはないが、名前は知っている。幻術に秀でたうちは一族の中でも屈指の使い手と言われ、大戦末期、中忍になったばかりで他国の強者たちと互角に戦ったという話だ。イクチは何度か会っているらしい。
「シスイが何だって?」
「前から言おうか悩んでたんだけどな」
「だから、何だよ」
「お前、昇格してから短気だぞ」
「悪かったな。もったいぶんなよ」
疲れているのか、いつもより気が立っている自覚はある。小さく深呼吸して、息を整える。
ワラはそんな俺を見て、少し声のトーンを落とした。
「最近、と会ってるぞ」
不意にの名前が出てきて、心臓が跳ねた。飛び道具のように使うのはやめてくれ。せめて情報部とか、前置きがほしい。
俺は少しでも平静を装って、徐に口を開いた。
「何言ってんだ」
「だから、シスイだよ。南口のほうでたまにと話してんの見かけるぞ」
「……人違いじゃねぇの? はそんなに暇じゃねぇよ」
「そう思うだろ? 俺もそう思って外回りのあと情報部に寄ったんだよ。そういうときに限って、も里内の仕事だって言われんだよな~」
「お前……暇すぎんだろ」
呆れて息をつきながらも、俺の胸はどこか居心地悪くざわついていた。が誰かと立ち話をしている。そんなこと、よくある話だ。は気さくに誰とでも関わろうとするし、仕事柄、様々な部署と連携することも多い。そんなことをいちいち気にしていたら気が狂うし、そもそもシスイはまだ十歳足らずという話だ。
面倒見のいいが、時々話を聞いてやる後輩のひとり。イワシみたいなもんだろう。そう自分に言い聞かせた俺は、ワラの話を忘れようとした。
その一週間後、火影室でシスイと鉢合わせることになるとも知らずに。
「では、シスイ。頼んだぞ」
「はい、三代目様。お任せください」
シスイは三代目に一礼したあと、俺の顔を軽く一瞥して去っていった。
ただのガキ。俺の中の勝手な決めつけが揺らいだ。
こいつは、ただのガキじゃない。
の顔が浮かんで、俺の胸ははっきりとざわついた。もしもが、わざわざ時間を取って本当にシスイと会っているとしたら?
俺には一度も、会いに来ないのに?
――何様なんだよ。
が誰と会おうが、俺には何の関係もないのに。
俺にそんなこと、とやかく言う権利はないのに。
分かっているのに、この胸のモヤモヤは晴れない。重苦しい、どす黒い感情が全身を巡るのが分かった。
俺は一体、どうしたって言うんだ。
ガキの頃からずっと一緒だったに対して、こんな気持ちになるなんて。
分かっている。俺は疲れている。ワラに指摘されるまでもなく、昇格したばかりで疲労も溜まって苛立っている。
そうだ、これは本来の俺じゃない。
そう、思いたかったのに。
二か月ぶりに仕事以外で会えて、どう考えても紅とライドウのお節介のために二人きりになる時間までできて。
ほんの少しでいい。二人だけで、ゆっくりしたかった。触れられなくても、抱きしめられなくても、の顔を見て、茶でも飲みながら一息ついて過ごせたら、それだけでよかったのに。
「でも……」
家に上がりたいと言ったら、は露骨に渋った。普段の俺ならきっと、そういう日もあるだろうと割り切れたはずだ。は心の整理がついていないし、俺と同じく特別上忍になったばかりで疲れているはずだ。
今思えばそんなことは当然分かるのに、あのときの俺は頭に血が上ってしまった。
「忙しいとか言うなよ。どっかの誰かに会う時間は作れるんだもんな?」
俺は本当に、最低の男だ。
図体だけデカくなった、独占欲丸出しの子どもだ。
恋人でもないのに。何様なんだよ。
――お前がそんな顔するから、悪いんだろ。
「俺に会う時間は取れなくても、うちはに会う時間は取れるんだもんな。お前、年下が好みなのかよ」
馬鹿か。ふざけんなよ。ただの八つ当たりだろうが。
そんなこと、思ってねぇよ。
を好きになってから、醜い自分を知っては嫌気が差す。
最近つけている口紅だって、もしかしたら俺のためなんじゃないかと思って期待した。でも本当は、シスイのためかもしれないと邪推して勝手に嫉妬して。
俺はこんなにも、嫌なやつだったんだな。
は怒りと悲しみが綯い交ぜになったような真っ赤な顔をして俺を睨んだ。
涙に濡れたその目を見て、越えてはならない一線を越えてしまったことを思い知る。
「ゲンマなんか……大っ嫌い!!」
大好きと何度も聞かせてくれた声を震わせて、は最後にそう叫んだ。