167.逃避


 相変わらず任務でシスイと顔を合わせることはなかったけど、私は彼と初めて出会った川原に時々足を運ぶようになった。もしかしたら、また会えるかもしれない。彼もそう思ってくれていたのか、私たちは時々顔を突き合わせて話をするようになった。

「これまでの歴史を見ても、一族がどうとか里がどうとか、そういう次元の話をしていては味方以外は殺していいという理屈になってしまう。それでは争いはなくならない」
「でも、初代火影の時代に五影たちが会談の場を設けてる。そこでの話し合いと言えば、火影が尾獣を各国に分配することで五大国が協定にサインするというもの。結局その約束も守られず、大戦が始まってしまった……どうやって、他国と話し合いなんかできるっていうの?」
「一度の話し合いなんかじゃ駄目だ。続けていかないと意味がない。それに、世界は五大国だけが治めてるわけじゃない。五大国の戦火に巻き込まれて疲弊してる小国は山ほどある。彼らは置き去りにされて苦しんでる」

 シスイはそう言って苦々しげに顔を歪めた。

 自国の利益を守ること。味方を守ること。仲間を殺された憎しみ。そんなものに囚われていた自分が、本当にちっぽけに思えてくる。

 戦争も終盤に差し掛かっていたし、シスイは中忍になってすぐ戦地に派遣されたらしい。きっとオビトと同じ年に昇格したんだろう。
 理想と現実のギャップに打ちのめされ、それでもなお広い視野で物事を見つめられる、深い眼差し。

 こんな忍びが、里にいたなんて。

 それとも私が知らないだけで、本当はもっといるんだろうか。里のこと、一族のこと、それ以上に広く、世界の安寧を願い、考え続ける者が。

 私は特別上忍になったばかりだし、ゆっくり話せる時間は取れない。それでも空いた時間は、ふと思い立ってこの場所に足を運んでしまう。

 ゲンマとはあれ以来、仕事以外で会ってない。

 不知火家で私の誕生パーティーをしてもらってから、一度も。

 私たちはあの頃、きっと熱にでも浮かされてたんだと思う。ゲンマと朝まで一緒に過ごしてからの凡そ二か月、私たちはまるで恋人みたいな距離感だったと思う。
 思い返しても恥ずかしすぎる。見つめ合って、触れ合って、ただ、それだけなのに。心臓が壊れそうなくらい、どきどきして苦しかった。

 ゲンマのことが好きだって、気づいてしまった。
 多分――ゲンマも。

 でも、私は誰とも付き合わない。結婚もしない。子どもなんか絶対に作らない。
 だから、特別上忍の話が来て、ちょうどよかった。

 互いに忙しくなれば、物理的に会うことが難しくなるから。
 私は外での任務が以前にも増して増えたし、ゲンマも護衛対象の幅が広がって忙しいみたいだった。特別上忍になって二か月、ゲンマがうちを訪ねてくることもなかった。

 これでいいんだ。これで。

 ただの同僚に、戻るだけ。

 それなのに、コトネさんにもらった口紅だけは、何がなくてもつけてしまう。

 コトネさんは口紅を二種類くれた。あの夜に塗ってくれた大人っぽいワインレッドと、仕事でも使いやすいようにって落ち着いたオレンジ。
 これくらいなら、いいよねって。アオバは気づかないくらいだし。せっかくもらったんだし。そう、自分に言い訳をして。

 可愛いって言ってくれたゲンマの声が、耳の奥で響く。
 ネネコちゃんを一緒に抱きしめたゲンマの温もりも。布団の中で絡めた指先も。

 忘れてしまいたいのに、忘れられない。でも、忘れなきゃいけないのに。

 ゲンマだってあの夜、私から距離を置こうとした。私は一緒にいたかったのに、ゲンマは私から手を離した。
 ゲンマだって、やっぱりおかしいって気づいたんだろう。これ以上、近づいたらダメだって。

 だから、これでいいんだ。これで。

 諜報分野のスペシャリストとして、単独での仕事や部下の育成、幅広い分野の任務が増えた。忙しくて、もともと少なかった休日の呼び出しなんかもざらだ。
 ほんの少しの空いた時間を、こうしてシスイと語り合うことに充てている。

「臭いにゃ」

 家に帰って部屋で着替えていると、不意に声が聞こえて振り返る。
 ドアの前に座り込んだサクが、不機嫌そうな顔をして尻尾をブンブン振っていた。

「何よ、臭いって。忙しいけどシャワーは浴びてるよ」
「うちはの臭いがするにゃ」
「あぁ……」

 今日は確かにシスイに会ってきた。でも、これまでそんなことで姿を見せたことはなかったのに。特に、この半年ほどは。

「……オビトのときは、そんなことで文句言わなかったじゃん」
「あいつはそんなに臭くなかったにゃ」

 サクたちが臭いと言うのは、うちはそのものというより、彼らが出入りしている忍具店に居座る忍猫たちのことだ。オビトはうちはの中でも特殊な立ち位置だったから、そこまで例の忍具店に顔を出していなかったのかもしれない。

 サクはベッド縁に腰掛ける私の足に登り、太腿の上で丸くなった。珍しい。
 冬の寒い日、時々こうやってアイと一緒に私で暖を取りに来たことかあったな。

 でも、今は春。寒いからとかじゃ、ないよね。

 尻尾を揺らしながら、サクがそっぽを向いて漏らす。

「ゲンニャのほうがいいにゃ」
「……ゲンマだって忙しいんだよ。しょうがないじゃん」
「うちはに会う時間があるならゲンニャのとこに行くにゃ」
「……だから、ゲンマが忙しいんだってば」

 何でサクまで、そんなこと言うのよ。

 ほんとは会いたいのなんか、私が自分で一番よく分かってるよ。

「あいつ、今アパートにいるにゃ」
「……行かないよ」
「行くにゃ」
「行かないってば」

 私が少し声の調子を強めると、サクはこちらを冷たく一瞥してからまた私の太腿で丸くなった。

「アイがいないとつまんないにゃ」

 アイを亡くしたあの日から、サクがその名前を口にするのは初めてだった。
 心臓が、ぎゅっと痛んだ。

「……そう、だね」
「ゲンニャがいないのもつまんないにゃ」
「………」

 ゲンマはあのときからずっと、私のそばにいてくれた。アカデミーに入ったばかりの頃、校庭の隅で初めて顔を合わせてから、ずっと。
 きっといつの間にか、サクたちにとっても身近な存在になっていたんだろう。

「……そんなこと、言わないでよ」

 思わず涙がにじんだ目を閉じて、私はサクの小さな身体を抱きしめた。