165.境界
十年ずっと、そばにいた。笑顔も、泣き顔も、困り顔も、怒った顔も、真剣な顔も、ふてくされた顔も、全部見てきた。
のどんな顔を見てももう驚かないし、自分の気持ちに気づいてからは、そのどんな顔だって全てが愛おしく思えてたまらなくなった。の姿が目に入るたび、胸が締め付けられるようだった。
だが、こんなのは聞いてない。
コトネと一緒に戻ってきたは、完全に女だった。
が女だということは、もう何年も前に気づいていたはずだ。リンの死に塞ぎ込んだが、俺の腕の中で何時間も泣き明かしたとき、知らず知らず身体が反応してしまってもう誤魔化せなくなった。
のことを考えて眠れなくなる夜だって当然あるし、俺の布団で一緒に寝たあの夜だって、正直一睡もできなかった。
だが根本的に、は童顔だ。幼い頃からずっと見てきたあどけなさを残した、年相応とは言い難い子どものような顔。あれで諜報員だというのだから、確かにカモフラージュにはなる。
それなのに。
初めてのメイクに戸惑うの姿は、完全に大人の女のそれだった。
***
絶対に、もう、不知火家の人たち全員にバレてる。
二度とゲンマと一緒に不知火家には行けないって思った。ていうか一人でも行けない。恥ずかしすぎて消えたい。
コトネさんにメイクしてもらってみんなのいるところに戻ったら、イクチやおばさんにめちゃくちゃ褒められて恥ずかしくなった。おじさんもニコニコしながらこっちを見ていた。
でも極めつけはゲンマの反応で、ゲンマは耳まで真っ赤になって口から千本を落とした。
それだけで死ぬほど恥ずかしいのに、イクチが囃し立てに行ってゲンマの肩に腕を回したけど、ゲンマはほとんど呂律が回ってなかった。
あんなゲンマ、見たことない。イクチもちょっと引いていて、悪かったと素直に詫びていた。
それからお開きになるまで、恥ずかしすぎてゲンマのほうは見られなかった。ゲンマはゲンマで私から一番離れたところに座って、完全に背中を向けていた。
ネネコちゃんが眠そうで機嫌が悪くなってきたから、私とゲンマは帰ることにした。メイクは帰る前に落としてほしいってコトネさんに頼んであったのに、ネネコがぐずるからごめんねって断られた。
ゲンマの実家から、私の家まで五分。あっという間なのに、メイクをしたままなのがめちゃくちゃ気恥ずかしくて、私はゲンマの隣をずっと俯いて歩いた。
五分って、ほんとにすぐだな。もう、着いちゃった。
私の家の前で、自然と一緒に足を止めた。ゲンマが何も言わないから、ちらりと控えめに視線を上げると、ゲンマはすごく難しい顔をして私を見下ろしていた。
でも、頬が赤くなってるのは、分かる。
またドキドキして、息が苦しくなった。
「ねぇ……ゲンマ」
「……ん?」
不機嫌そうに片眉を上げるゲンマ。めちゃくちゃ迷ったけど、乾いた喉に唾を流し込んで、私はやっと口を開いた。
「メイク……変じゃない?」
するとゲンマは目を丸くして、それからすごく呆れた顔をして息を吐いた。月明かりに映えるゲンマの肌が、また色づいたような気がした。
「似合ってるに、決まってんだろ」
「……言わなきゃ、分かんない」
ゲンマは唇をへの字に引き結んで、千本の先を不機嫌そうに揺らしながら、消え入りそうな声で「可愛い」って囁いた。
ゲンマにそんなこと言われるの、初めてじゃないかな。どうしよう。どきどきしすぎて、心臓が壊れそう。
離れたくないな。まだ、一緒にいたいな。
「……ゲンマ」
言いたいのに、言えなくて。思わずゲンマの袖を掴んだ私に、ゲンマは優しい声で言った。
「冷えるから、早く入れよ」
「あ……うん」
めちゃくちゃ恥ずかしい。ゲンマはそんな気、なかったのに。
もっと、一緒にいたいなんて。
もう、こんな時間、取れないかもしれないのに。
未練がましく袖を握る私の手を、ゲンマがそっとつかんだ。ずっとポケットに入れていたゲンマの手は温かくて、私は固まっていた心が少しずつ溶けていくのを感じた。
視線を上げれば、ゲンマの穏やかな眼差しと目が合う。すごく安心して、すごくどきどきする。
ゲンマは私の手を引いて、玄関先まで連れて行ってくれた。
「じゃあな。あったかくして寝ろよ」
「子どもじゃないんだから……」
「……そうだな。もう、子どもじゃないんだよな」
ゲンマのその言葉に、なぜだかどきりとした。ゲンマが私の手を離して、代わりになぞるように頬に触れる。一瞬、ぞくりと肌が粟立った。
「おやすみ、」
「……うん。おやすみ、ゲンマ」
離れたくないよ。でも、そんなこと言えない。
私たちは、恋人なんかじゃ、ないんだから。
***
もっと一緒にいたい。が、そう思っているのが分かった。
俺だって、本当は一緒にいたい。離したくない。初めて見るの姿を、もっとこの目に焼き付けたい。
だが、もし間違いが起こったら?
あの夜、手を繋いだままはやがて眠りについた。この状況で、よく眠れるな。も俺を特別に思ってくれていると分かってはいるが、やはり根本的に俺が男だと分かっていないのだろう。は俺を信頼しているし、俺だって付き合ってもいない、ましてや未成年のに何かしようなんて思ってない。思ってないが。
頭と身体は、別だろう。
自分で引き留めたのだから、自業自得だ。無防備なが、目と鼻の先であの甘い匂いをさせて眠っているときに、正気でいられるわけがない。頭を冷やすために一旦離れて、またの隣に戻り、さほど意味がなかったことを知る。
そばにいたい。触れたい。もっと近づきたい。
欲望が膨れ上がって、押し潰されそうになる。
艷やかな唇に、上向いた睫毛。縁取られた瞳に、色づいた頬。
今、間違いが起きてしまえば、は俺から離れていく。絶対に。
嫌だ。そばにいたい。ずっと、隣にいてほしい。
だから。
「おやすみ、」
そんな顔、するなよ。
これ以上近づいたら、一緒にはいられなくなる。