162.足踏み


 眠れるわけないと思ったのに、知らない間に眠っていた。

 ふと目を覚ますと、暗い部屋の中でも目の前にゲンマの寝顔が見えて心臓が跳ねた。忍猫使いになってから、次第に人より夜目が利くようになってきた。いいのか、悪いのか。そういえば、一緒の布団で寝たんだった。

 ゲンマの匂いに包まれて、ゲンマの寝息を聞きながら、こっそりと寝顔を見つめる。手を握って寝たはずだけど、今は離れていた。

 外はまだ暗い。多分、寅の刻くらいかな。仕事もあるし、そろそろ帰ってシャワーくらい浴びたいな。歯磨きもしてないし、落ち着かない。
 でも、ゲンマは朝までいろって言ってた。朝って何時? 勝手に帰ったら怒るかな。

 あれこれ考えながら、また、ゲンマの顔を見る。少し長い髪が頬にかかっていて、思わず手を伸ばしてゲンマの耳にそっとかけた。
 ゲンマの髪、好きだな。細くて、さらさら。

 ちょっと髪を指で梳いてから、私はそのまま人差し指でゲンマの頬をなぞった。少し弾力があるけど、温かくて柔らかい。今度は手のひら全体で包み込むように撫でていたら、少しゲンマの唇が震えたように見えた。あ、起こしちゃう?
 でもその前に、触れているゲンマの頬がどんどん熱くなってきて、私はまさかと息を呑んだ。

「ゲンマ……起きてる?」
「……くすぐってぇよ、アホ」
「ばっ! バカ、起きてるなら言ってよ!」

 恥ずかしすぎる。意地悪。最低。私は思わず後ろに退いて、慌てて身体を起こした。寝る前にストーブを切ったから、布団の外は寒かった。

「仕事あるからもう帰る!」

 でもすぐにゲンマの手が伸びてきて、腕を掴んで引き戻される。ゲンマはまた、子どもみたいな声を出した。

「もうちょい」
「ダメ! 昨日だけって言ったじゃん! もう帰る!」

 無理。思い返しても、昨日の私たちはおかしかった。熱でも出てたんじゃないだろうか。こんなの絶対、おかしい。何もなかったとしても、絶対に普通じゃない。
 全身が熱くなって頭もふらついてくる中、起き上がったゲンマが腕を引いてまた私の背中を抱き寄せた。

 今度は柔らかくて、穏やかな抱擁だった。

「ありがとな」

 私のよく知ってる、ゲンマの声。優しい、お兄ちゃんみたいな声。
 それなのにこんなにも、胸が苦しくなる。心臓がドキドキと脈打って、熱に浮かされたみたいに意識が揺らいだ。

 もう、ごまかせないのかな。

 私たちはただの幼なじみで、元チームメイトで、同僚だって。

「うん……ちゃんと食べてね」
「ん。今度お前んちに飯持ってくわ」
「……うん。待ってる」

 離れなきゃダメだって、分かってるのに。

 何で私は、こんなに弱いんだろう。


***


 年が明けてしばらくして、ゲンマが炊き込みご飯と豚汁を持ってきてくれた。こんなにすぐ来ると思わなかったからびっくりした。
 それからも週に一回は、短時間だとしてもゲンマがうちに顔を出すようになった。嬉しかったけど、戸惑いのほうが大きかった。

 私たちはもう、あのときみたいに抱き合ったりしないし、一緒の布団で眠ることもない。ただ一緒にご飯を食べて、少し話をしたらゲンマは帰っていく。でもふとしたときに頭を撫でられたり、すごく優しい目でじっと見つめられたり。ドキドキして、心臓が持たなかった。

 急に、怖くなった。ゲンマは無理に距離を詰めてきたりしない。でも、このままズルズルとこんな関係が続いたら? 私は自分をごまかし続けられる?
 ゲンマと離れたくない。でも、これ以上近づくのは怖い。

「ベスト、新調したんだな」

 一月も終わりに差し掛かった頃、ゲンマがふと思い出したようにそう言った。
 並んで食器を片付けていた私は、傍らのゲンマをちらりと見上げて短く答える。

「うん……三か月くらい、前かな」

 私の歯切れが悪いのを見て、ゲンマはどうしたって聞いてきた。

 十一歳のとき、ガイや紅と一緒に中忍になった。誇らしくて、嬉しくて、私にとってあの中忍ベストは特別で。戦争を経て傷がついても、ずっと身につけて里のために戦ってきた。

 でも、九尾襲来の夜。私は血まみれのアイを胸に抱いて帰った。時間が経って乾きかけているところもあったけど、私のベストにはアイの血痕がべったりとついた。
 血を落としてまた着ることだってできる。でも私は、そうしなかった。これはアイの一部。生まれたときから一緒だったアイが、何者かと戦い、痛みを負ってもなお生き抜こうとした証。

 私はそのベストを脱いで、クローゼットの奥に仕舞い込んだ。時々サクが引っ張り出していることも知っている。そのへんに転がっているのを見つける度に、しっかり畳んで元の位置に戻した。

「アイの、血が……ついたから。落とせなくて」

 私がぼそぼそと呟くと、ゲンマはちょっと黙り込んだ。アイの死は、ゲンマも知っている。あれからサクが塞ぎ込んで、出てこないことも。
 でも九尾の封印を妨害した何者かがいるという事実は、里の中でもごく一部にしか伝えられていない。ゲンマだって知らない。だからアイの死は、九尾によるものということになっている。

 ゲンマは何も言わずに私の肩を抱いた。どきりとして肌が粟立ったけど、やっぱり嫌じゃなくて撥ねつけられなかった。ゲンマのことが、好き。気にかけてくれるのが、嬉しい。
 でも、これ以上先に進むのは、怖い。

「サク?」

 ゲンマのその声に、私は振り返る。ゲンマが見つめる先にはサクがひとり座っていたけど、私たちが見やると尻尾を振ってそのまま姿を消した。

 いつかまた、応えてくれる日が来るのかな。

 項垂れる私を抱き寄せて、ゲンマが優しく頭を撫でてくれた。心臓が弾けそうなくらいドキドキするのに、同時にものすごく安心する。ゲンマへの気持ちが溢れて、いつか止められなくなるんじゃないかと思えてものすごく怖くなる。

 こんなこと、いつまでしてくれるんだろう。

「じゃ、またな。おやすみ」
「うん……おやすみ、ゲンマ」

 見つめ合って、別れの言葉を交わす。

 ただそれだけなのに、心臓が壊れそうなくらい、愛おしくてたまらなくなる。