154.ワガママ
ゲンマはそれからしばらくじっと私のことを見ていた。私は逃げたかったけど、ここで逃げたらダメだと思った。ちゃんと、受け止めないと。
ゲンマのことが、大好きだから。
「でも、お前のことが一番大事で、俺にはお前が必要だってのは変わんねぇから。だから、もう勝手に離れようとすんなよ」
鼻の頭がツンと痛んで、胸が苦しくなった。
私、やっぱりゲンマと離れたくないな。そばに、いたいな。
「うん……ありがと、ゲンマ」
また昔みたいに、甘えてもいいかな。
「ねぇ、ゲンマ」
「ん?」
「私たち……また、昔みたいに……」
その先が、喉につっかえて言えなくなった。でも、ゲンマがひどく優しい眼差しで促してくれてるように思えて、私はやっと視線を上げる。
「昔みたいに、家族みたいに……また、お兄ちゃんみたいに思ってても、いい?」
ゲンマの瞳が、微かに揺れた気がした。でもゲンマは優しく目を細めて、まっすぐに私を見た。
やっぱりこの眼差しが、大好きだなと思った。
「当たり前だろ」
嬉しいのに、どこか切なく胸が痛むのは何でだろう。昔みたいにそばにいていいって、言ってくれてるのに。
ちょうどそのときまたネネコちゃんが起きて泣き始めたので、私たちはまずおしめの確認をした。出てない。抱っこしてあやしても、ダメ。あ、ひょっとしてミルク? ごはんは食べたし、合間にまだミルクを飲んだりするんだって、クシナさんが言ってた。
「ゲンマ、ミルクどこか分かる?」
「あー……分かんねぇから見てくる」
「一緒に行く。私もどこにあるか見ときたい」
泣き喚くネネコちゃんを抱っこしたまま立ち上がると、ゲンマは驚いたみたいだった。私だってついさっきまで、もうこんなこと二度と御免だって思ってた。ネネコちゃんは可愛いけど、めちゃくちゃ神経使うし疲れる。
でも、ゲンマと一緒だったら。たまにはこういう日も、悪くないかなって。
台所の棚にミルクの缶を見つけて、ゲンマが表示のままに温めて、冷ます。ネネコちゃんはやっぱりお腹が空いてるみたいで、ミルクを見て手を伸ばしながらギャンギャン泣いてたけど、私がほっぺをくすぐると声をあげて笑った。あぁ、可愛いな。
「ゲンマが抱っこしてよ」
「え、やだって」
「ずっと私かクシナさんか四代目しか抱っこしてないじゃん! ゲンマもやって! おじさんでしょ!」
「オジサン嫌われてるからな!」
「そういうこと言うからでしょ! して、抱っこ!」
私が怒って睨むと、ゲンマもしばらく怖い顔をしてたけど、渋々といった様子でネネコちゃんを受け取った。でもネネコちゃんはやっぱりゲンマに抱っこされた途端、声のトーンが何倍も上がったみたいだった。
「何なんだよ……おばちゃんがいいってよ」
「誰がおばちゃんよ。私まだ十五です」
「俺だって十八だよ」
「ゲンマはおじちゃんなんだからおじちゃんでいいでしょ! ネネコちゃん、お腹空いたね。どーぞ」
私が哺乳瓶を差し出すと、ネネコちゃんはおとなしく受け取って器用に飲み始めた。ご飯も機嫌が良ければ自分でスプーンで食べるし、ハイハイで色んなところに行きたがるし、ちょっと目を離した隙につかまり立ちしようとしているのを見たときは心臓が止まるかと思った。
立つのはまだ全然覚束なくて、すぐにひっくり返るからだ。
コトネさんは死ななきゃいいって言ってたらしいけど、目を離したらあっという間に死ぬ可能性もあるなと思った。そんなに容易い命じゃない。
でも、一生懸命、生きてる。
疲れてきたのか、上手く飲めなくなってきて愚図るネネコちゃんに笑いかけ、私は哺乳瓶にそっと手を添えた。ネネコちゃんは最後まで飲み切るとゲンマの腕の中でまたギャンギャンし始めたので、ゲンマが困った顔であやそうとしている。
愛おしいって、こういう気持ちかなって思った。そしたら気づかないうちに、私はゲンマとネネコちゃんを一緒に両腕で抱きしめていた。
ネネコちゃんの甘い匂いに、ゲンマのお日様みたいな匂い。すごく落ち着くし、すごく安心する。
「だーいすきだよ」
思わず話しかけると、ネネコちゃんの笑い声が聞こえて、私はその柔らかなほっぺに頬ずりする。ぺちぺち叩かれて、くすぐったくて笑ってしまう。
その隙にそっとゲンマを見上げたら、すごく赤い顔をして私たちのことを見下ろしていた。
ドキッとしなかったと言ったら嘘になる。でも気づかなかった振りをして、私はゲンマに笑いかける。
家族みたいって、お互いに確認して。
だからまた、こういう距離に立っていられる。
そうじゃないって気づいたらきっと、そばにはいられないから。
いつの間にか眠ってしまったネネコちゃんを二人で抱いて、私たちはしばらくの間、そのまま寄り添っていた。
***
布団に置くとネネコはやっぱり大泣きしたので、が一緒に横になって抱き寄せると、やがて二人で眠りについた。まだ一歳にもならない小さなネネコと、十五歳の。だってまだ子どもみたいなもんだし、親子と見るには無理がある。せいぜい年の離れた姉妹といったところか。
ネネコは俺たちの子どもじゃない。イクチとコトネの子どもだし、俺たちだって夫婦どころか付き合ってもいない。
でも、こんなもん。夢見るに決まってんだろ。
いつかとこうやって、俺たちの子どもを囲む未来を。
イクチのやつ、とんでもない状況を仕組んでくれたな。
は昔のように、お兄ちゃんのように思ってもいいかと聞いた。あれはきっと、これ以上踏み込むなという警告だ。結婚なんて、とんでもない。男女の仲になるつもりなんかないと。
傷つかなかったといえばそれは嘘だ。だが同時に、イクチの言葉が思い出された。焦るなよって。焦ったところで、を取り囲む壁が崩れるわけじゃない。
五年かかっても、十年かかってもいい。が一生俺を男と見なくたっていい。がもし他の男を選ぶならそれだっていい。
幸せに、なってくれるなら。
だから今、焦って答えを出さなくていい。
のそばにいられるなら、今はそれだけでいい。
布団に並んで眠るとネネコに、そっと近づく。熟睡していることを確認してから、ネネコの隣に慎重に身を横たえた。
ネネコの小さな頭の向こうに、の寝顔が見える。仕事中の凛とした姿も、こうして無防備に寝息を立てる姿も愛おしくてたまらない。
このまま、時が止まってくれたら。