152.笑い声
赤ん坊の世話は想像以上に大変だった。食事、おしめ交換、漏れ、片付け、ぐずり、癇癪。寝ているからと油断して布団に置けば大泣き。
そして何といっても、俺の顔を見ればギャンギャン泣き出すこと。これでも顔を合わせたのは十回を超えてるはずだが、まったく慣れてくれない。イクチが冗談めかして「お前は顔が怖いんだよ」と笑っていたときは受け流せたが、に同じことを言われるとちょっと傷ついた。
その「顔が怖い」やつにすぐ懐いたのはどこのどいつだよ。
バタバタと食卓を片付け、汚れ物の洗濯。ネネコのうんこがべったりついたおしめに、の中忍ベストもある。このくたびれた様子だと、多分、中忍試験に合格してから一度も新調していない。チームメイトだったあの頃と、同じ。
まだこの気持ちに、気づいていなかった頃。
考えたら身体が熱くなってきて、俺は頭を振って雑念を払った。洗面所にうんこの臭いが充満していて助かった。そうでなければ俺はきっと、のベストを前に邪なことを考えてしまう。自来也様がしたり顔で押し付けてきたあの本も悪い。
汚物にもよく効くという石鹸のことはイクチから聞いていた。そもそもこれは血の汚れも落ちやすいため俺の家にも常備してある。そろそろ一人暮らしも始めたいし、今度買い出しのときに探しておくか。
洗濯を終えて縁側に向かうと、笑い声が聞こえてきた。ネネコのまるで鈴のような無邪気な声と、の柔らかな明るい声。
その後ろ姿を見て、胸がきつく締め付けられた。の温かな笑い声を、久しぶりに聞いた気がした。ネネコに抱きつかれて、楽しそうに笑いながら抱き上げたり、ネネコのされるがままになっておとなしく頬をはたかれたり。
今日だけじゃない。こんなふうに穏やかな時間を、の隣で過ごせたら。
ネネコとはしゃぐの姿をずっと眺めていたかったが、そういうわけにもいかない。軽口を叩いてたちの後ろを通り過ぎ、洗い物を干す。梅雨は先日明けたばかりで、手入れされた庭にも夏らしい陽射しが照りつけていた。
そのとき、玄関のほうから声が聞こえた。聞き違いでなければ、クシナさんだ。
まずい。タイミングが悪すぎる。クシナさんは俺とが付き合っていると未だに思い込んでいて、会うたびにのことを聞いてくる。こんなところを見られたら、親族公認で結婚を前提に付き合っていることにされる。
「! 俺は、いないことにしてくれ」
「え、何? 私が出るの?」
「あ、いや、待て、お前が出るほうが不自然か……やっぱ俺が出る。お前は絶対に出るな、いいな?」
「なんか、そういう言い方されるとムカつく」
「そういう意味じゃねぇって! とにかく――」
「あれぇ? ゲンマにだ!」
そうこうしているうちに、庭先を覗く人影があった。しまった、やっちまった。
ひょっこりと顔を見せて歓声をあげたのは、やはりクシナさんだった。その後ろには、四代目までいる。
完全に、オフの出で立ちだった。
テンパる俺など眼中にもない様子で、クシナさんが周囲を見回す。
「あれ? ネネコ、と一緒なの? ママは?」
「だから言ったじゃないか、クシナ。イクチは今日から任務なんだから、日にちが違うんじゃないかって」
「えーーーーだってイクチがいなくてもいいと思ったってばね! 、コトネはどこ?」
「え、友達と旅行行ってるって聞いてますけど……」
「ほらね」
呆れた様子で肩をすくめる四代目と、それを聞いてショックを受けるクシナさん。恐らくコトネと約束をしていたが、日にちを間違えたんだろう。クシナさんらしいといえば、らしい。
が。俺は正直、それどころじゃない。
案の定、クシナさんはネネコを抱っこすると、洗濯物を干している俺とを交互に見て、ニヤニヤと笑った。
「で? 二人が留守を任されてるわけ?」
「な、成り行きです……」
「ふーーーん」
どう見ても勘繰っているし、勘繰るなというほうが無理だろう。こんな状況。分かっている。はクシナさんの勢いに押されてただ呆然としているが、俺は全身から汗が噴き出すのが分かった。
だがネネコがキャッキャと笑って手を伸ばしたので、クシナさんの意識は完全にそちらに移った。
「ネネコーーーーー元気だった? お姉ちゃんの抱っこ嬉しいねぇ! わぁ、ほんとに嬉しそう! 、ずいぶん懐かれてるね」
「そ、そうですか? なんか急にお世話することになって、まだ数時間しか経ってないのにもうぐったりです……」
「えーーそんなことないよ! すっごく上手だってばね! はいいママになるね」
クシナさんは無邪気にそう言ったが、は複雑そうな顔をして視線を落とした。その姿を見て、無性に抱きしめたくなった。
だが人前ということを差し引いても、はきっともうあんな関わり方は望んでいない。
肩を落とす俺の隣に、いつの間にか四代目が立っていた。俺はぎょっとして飛び上がる。この人は私生活まで閃光なのかよ。
「とはうまくやってる?」
「うまくって……これは、イクチに仕組まれたんですよ」
「フフッ。イクチの考えそうなことだ。君たちが可愛くて仕方ないみたいだから」
イクチと四代目は元々さほど接点がなかったが、イクチがコトネと付き合うようになってから、コトネと親しいクシナさんや四代目とも交流が始まったらしい。だから余計な情報が、俺の上司に届きやすい。みっともないことこの上ない。
「は本当に良い子だね。とてもお似合いだよ」
「四代目まで……ほんとにやめてください。は俺のことなんか」
「幼なじみとしか思ってない、かな? だとしても、ネネコがに抱かれてあんなに安心できるのは、自身が安心しているからだよ。君と一緒にいることで、はそれだけ安心してるってことだ」
四代目の涼やかな笑顔に、俺の胸は熱くなった。は四代目が好きで、でもきっととっくの昔に諦めていて。俺なんて足元にも及ばないほど完璧なこの人にどんなに背中を押されるような言葉をかけられても、素直に受け取ることはできない。
だが、が俺といることで安心しているという言葉は、すんなりと俺の中に入ってきた。子どもの頃から何度も、大好きと言って笑ってくれたの眼差しを思い出す。
恋人になれなくても。夫になれなくても。俺はただ、のそばにいたいだけだ。
あんなことがあったのに、今でもまだ俺のそばが安心すると思ってくれているのなら。
とネネコに前のめりに話しかけていたクシナさんが、突然こちらを振り返って声をあげた。
「ミナト! ネネコとともっと遊びたい!」
「えー? コトネもいないんだし、出直したほうが……」
「イヤ! ネネコととお散歩行きたいってばね!」
「えー……、ゲンマ、それで大丈夫かい?」
困った顔で頭を掻いて、四代目が俺とを交互に見やる。俺もまたと顔を見合わせてから、ぎこちなく口を開いた。
「俺、たちは……構いませんが」
「やったー! ねぇミナト、みんなで行こうよ!」
「あ、いや、俺は飯の準備もあるんで……」
俺が慌てて断ろうとすると、クシナさんは俺を怖い目で睨んだ。
「そんなの外で食べればいいってばね! ゲンマも行くの!」
「いや、でも外でネネコの食えるもんなんて……」
「そんなのどうにでもなるってばね! コトネがよく言ってるでしょ、死ななきゃ問題ないって。ゲンマはほんっとに心配性ね!」
死ななきゃ問題ない、は親の台詞だろ。他人が言ったら駄目なやつだろ。
だがクシナさんの勢いに押されて――そしてきっとコトネやイクチなら、この場にいても止めはしないだろうと悟って、俺は諦めの気持ちでため息を吐いた。
はネネコにポニーテールを引っ張られて「痛い痛い」と喚いていたものの、クシナさんと一緒になって本当に楽しそうに笑っていた。