149.罠


 自来也さんは一週間ほど里に滞在して、また単身出て行った。あの日もらった本は自来也さんの書いた本みたいで、情報部で聞いてみたけど読んだことのある人はいなかった。
 そもそも、自来也さんが作家だということ自体があまり知られていない。男の人はそのことを知ってる人も何人かいたけど、自来也さんの本の感想を聞いても誰も答えてくれなかった。里の作家なのに、知名度低すぎじゃない?

「アオバも読んだことないの? 自来也さんの本」
「ない。断じてない」

 ばっさり切り捨てられて、私は頬を膨らませた。なんかやけに強調してくる。逆に怪しいな。まぁいいけど。

 結局あれからもバタバタして、私は自来也さんの本に手をつけられないでいた。作家紹介のところだけ読んだら、どうやらデビュー作らしい。中身は小説みたいだった。

 六月も下旬に差しかかった頃、私は本部の廊下でまたイクチに会った。

ちゃん! 聞いて聞いて、ネネコのやつ歩いたんだよ〜! 震える足で頑張って立って歩いたんだよ〜! 俺ほんと感動しちゃって泣いちゃった、ねぇちゃんもまた会いに来てやってよ! コトネも喜ぶし!」

 ネネコちゃんの話をしているイクチは本当に幸せそうで、すごく微笑ましく思うと同時に、私は自来也さんの言葉を苦々しく思い出していた。
 母さんがこんな風に、私の誕生を喜んでくれたはずない。胸がぎゅっと痛くなった。

「そうだ、次の休みいつ? 三十日は空いてる?」
「え……えーと、何で?」
「今度ゲンマがネネコの世話しに来てくれんだけど、あいつ一人じゃ心配だからちゃんも来てくれると嬉しいんだけどなぁ〜」

 ネネコちゃんのお世話? ゲンマが? 何で? 私の頭には疑問符がいっぱい浮かんだけど、ようやく口に出せたのは別の言葉だった。

「ごめん……その日は、多分いない」
「だよね、ちゃんは忙しいよね。ごめんごめん、また時間あるときに来てね。待ってるから」
「うん……ありがと。コトネさんとネネコちゃんに宜しくね」
「もちろん。じゃあね、ちゃん。また」

 明るく笑って去っていくイクチの背中を見送って、小さく息をつく。うまく断れたかな。変に思われなかったかな。
 ゲンマと一緒に赤ちゃんのお世話なんて、悪い冗談だ。私は、結婚も出産もしないし。ゲンマがきっと家族みたいな気持ちで、結婚しろって言ってくれたことも撥ねつけて。あれからろくに口も利いてないのに、二人で赤ちゃんのお世話なんて笑えない。絶対にダメだ。

 でも、ちょっと想像してしまった。去年、ゲンマと初めてネネコちゃんに会いに行ったときの、ゲンマの優しい眼差し。きっとゲンマは、優しいパパになる。あんなに温かいイクチの従弟で、あんなに温かい両親の下に生まれて、幸せな家庭をよく知ってる。
 だからこそ、素敵な人と結婚してほしい。私みたいな弱い女に縛られてちゃダメだ。

 もう、どんな顔してネネコちゃんに会いに行けばいいか分からない。私はイクチの親戚でもないし、ゲンマがいないのにどうやって訪ねればいいかも分からない。

 もう、会えないかもな。そんなことを思って、ひとり寂しく情報部に戻った。

 でも、それから一週間後の朝。出勤早々、私は廊下でアオバに呼び止められた。

「おい」
「……何よ、アオバ」
「お前、今日は帰れ」
「……は? 何で?」
「俺に聞くな。その代わり、明日の休みはなしだ。今日は帰れ」
「だから、何なのよ」

 痺れを切らして詰め寄ると、アオバはこめかみに青筋を立てながらサングラスを押し上げた。

「俺だって知らん。あぁ、あとはこれをイクチさんに届けてくれ」

 アオバが嫌そうに差し出してきた封筒を受け取って、眉をひそめる。何で、イクチ?

 イクチは中忍だけど、世渡りというか処世術がとても上手なので、色んなところに顔が利く。偵察スキルを学んだとかじゃないのに、様々な情報がイクチのところに早く集まるから、情報部からも一目置かれるようなところがあった。

 わけが分からず首を捻りながら、私はまっすぐにイクチの家に向かう。
 向かっている途中で気がついた。今日は確か、三十日だ。

 ゲンマが、ネネコちゃんのお世話に行く日。

 途端に、全身から汗が噴き出した。

 まさか、イクチに仕組まれた? アオバまで巻き込んで? 仕事あるのに? 何で? ていうかまさか、私とゲンマのこと何か知ってる? いや、でも最近二人が疎遠になってるとか、そういう噂が出回っていることは知ってるから、ひょっとして。でもまさか、そこまでやる?

 帰ろうか、どうしようか迷った。でも、もし本当に必要な書類だったら? 中身を見るわけにいかないし、私はちらっと周囲に視線をやる。
 視界に入るだけでも、カラスが二羽。

 アオバのカラスかどうかは、ここからは分からない。でももしあれがアオバの口寄せだったら、私が仕事をサボったことがバレる。

 唇を噛んで考え込んだあと、私は仕方なくそのままイクチの家に向かって歩き出した。

 こういうときに限って、アイもサクも知らん顔で出てこない。薄情者。分かってたら、教えてくれればいいのに。

 重い足取りでイクチの屋敷の呼び鈴を鳴らすと、しばらくして顔を出したのは、イクチじゃなくてゲンマだった。