148.母


 ゲンマがまた来るって言ったのが怖くて、私は少し早く帰れる日も、残って資料の整理をすることが増えた。

 もしもまたゲンマがうちに来て、あんな風に詰め寄られたら。いつか不意に、本当の気持ちを漏らしてしまうかもしれない。
 ゲンマといたいって。一緒がいいって。

 でも、あれから四か月。ゲンマは一度もうちには来なかった。来たのかもしれないけど、会わなかった。

「ゲンマさんと喧嘩でもしたのか?」
「うるさい。何もない」

 通信班のリクに素っ気なく返しながら、私は必要な資料を持って事務室を出た。護衛部から頼まれていた情報をまとめて分析まで済んだから、渡しに行かないと。ゲンマ、いませんように。
 護衛部の事務室を開けたら、ゲンマやライドウたちはいなかった。

「お疲れさま。これ、頼まれてた資料」
「おう、いつもありがとな」

 ゲンマたちとは別の火影護衛小隊のメンバーに書類を手渡して、そのまま戻ろうと振り返ったら何かにぶつかった。
 ちょうど戻ってきたらしい、ゲンマの広い胸だった。

 ぎょっとなって心臓が跳ねた。

「よう。ちゃんと前見ろよ」
「い、急いでたの。ごめん」

 顔を見ることもできずに、私は足早にゲンマの横を通り抜けた。ライドウやイワシに挨拶もできなかった。ほんとに、何やってんだろ。

 情報部に戻る途中、通路の先に懐かしい顔が見えて私は足を止めた。一年ぶり、くらいかな?

「自来也さん、お帰りなさい」
「おう、。久しいな。元気にしておったか?」

 元気――なんか、あるわけない。自来也さんだって、ばあちゃんのことはとっくに耳に入っているだろう。
 自来也さんは壁から身体を離し、腕を組んだままこちらに歩いてくる。

、今日は非番だ」
「は? 自来也さんが?」
「お前だ、お前。ちょっと付き合え」
「え? 違います。仕事です」
「いのいちとアオバに許可は取ってある」
「えーーーーそれあとで絶対アオバにネチネチ言われるやつじゃないですか! イヤですよそんなの!」
「堅いことを言うな。寂しい独り身のデートに付き合ってくれてもよかろう」
「尚更お断りです。未成年を誘わないでください。もっと大人の方をどうぞ」
「お前……本当に凪に似てきたのう……」

 感心するやら呆れるやらといった様子で肩をすくめる自来也さんに、私はどきりとした。
 自来也さんはそんな私を見て、顔から軽薄な笑みを消し去る。

「澪様のことは聞いておる。話しておきたいこともあるからのう。ちぃと、付き合え」


***


 自来也さんに連れてこられたのは、私が来たことのない演習場に程近い川原だった。六月に入り、今日は晴れてるけど蒸し暑い日も増えてきた。

 途中で自来也さんが棒アイスを買ってくれて、アカデミーのときゲンマと修行のあとに一緒に食べたことを懐かしく思い出した。
 あの頃は、難しいことなんか考えなくてよかったのに。ゲンマの、結婚しろって言葉がずっと頭の中でぐるぐる巡っていた。

 ゲンマだってきっと、気の迷いで言っただけ。泣いてる私を放っておけなくて、一緒にいようって言ってくれただけだ。

「アイス、溶けてるぞ」
「あっ」

 自来也さんの一言で我に返り、慌てて滴を舐める。冷たい。ぼんやりした頭が奮い立つみたいだった。ダメだな、ほんとに。揺れてばっかり。

「ここは、昔よく凪と話をしたところだ」

 自来也さんの指導を受けていた頃、自来也さんは積極的に母さんの話をしたりはしなかった。どちらかというとばあちゃんの話をしてくれた。
 自来也さんがばあちゃんから教わったこと、自来也さんの先生だったヒルゼン様とばあちゃんのこと。暗部のダンゾウ様や、ご意見番のコハル様やホムラ様はみんな、二代目火影の小隊で共に戦った仲間だということ。

 私たちは川沿いの草の上に、並んで腰を下ろした。

「凪と俺はアカデミーの同期でな。と言っても、在学中はほとんど話をしたこともなかったがな。いつも白い目で見られておったわ」

 あぁ、分かる気がする。私は食べ終えた棒を口に咥えたまま、ぼんやりと川面を眺める。

「あれは第二次大戦が始まる前だったか。俺は世界中を旅しておってのう。戦ばかりの世に変革を起こすと予言された者を探しておった」

 初めて聞く話だった。が、突拍子もない話だと思った。戦いばかりのこの世の中に変革を起こす者。そんな救世主が現れるのは、おとぎ話の中だけだろう。
 分かっている。平和なんて、そんなに簡単に実現できるものじゃない。

「予言……って、何ですか?」
「俺は若い頃、蝦蟇の棲む妙木山で修行しておってな。その長である大蝦蟇仙人の予言だ。俺がその変革者を導く者であるという予言を得て、俺はその者を探す旅に出た」
「……変革者は、見つかったんですか?」

 見つかるはずがない。見つかっていれば、第二次大戦も第三次大戦も起こらなかったはずじゃないか。
 オビトやリンが死ぬことも、なかった。

 冷たく尋ねた私に、自来也さんは苦笑いした。

「手厳しいな。お前は本当に凪にそっくりだ」

 やめてほしい。母さんは、抵抗して、否定して、逃げて、最後には自暴自棄な戦い方をして死んだ。絶対に、そうに決まってる。

「里に戻ってきた俺に、凪は冷たく言った。戦争が始まろうというときに、そんなことをしている暇があるのかとな。だからこそ、流れを変えるきっかけが必要だ。大蝦蟇仙人の予言は、これまで外れたことがない」

 でも、きっと自来也さんの口振りだと、変革者はまだ見つかっていないのだろう。

「争いばかりの世の中に蔓延る憎しみをどうにかしたいと願い、力を身に着け、戦ってきた。俺が変革者を導く者だという予言を信じ、世界中を旅して様々な立場の者たちと対話してきた。世界にあるのは、憎しみ、諦め、そして希望を口にする者はただ形のないものに縋ろうとするばかりだった。俺は凪に、自分が世界で見てきたものの話をするようになった。凪は家という歴史ある一族の中で、平和について、そして何より、忍びという存在そのものに疑問を持っていた。凪は人一倍平和について考え、悩み、そして一人で抱え込もうとした。一人で抱えられるような、小さなものではないというのに」

 自来也さんの視線がこちらを捉えるのに気づいて、私は膝を抱える。聞きたくなんかない。私は、母さんとは違う。逃げたりしない。を背負った上で、私の代で終わりにする。

「……やめてください。自来也さんだって言ってたじゃないですか。母さんは、自棄みたいな戦い方してたって。もう、どうでもよくなったんですよ。家族のことだって、どうでもよかった。ばあちゃんだってそうです。平和に押し潰されて、家族のことなんかどうでもよくなっちゃったんですよ」

 少し、間があって。自来也さんが静かに言ってくる。

「……病室での話、やはり聞いておったか。サクモさんのことも」
「いいんです。サクモおじさんのことは……前から分かってましたから。母さんは父さんより、サクモおじさんが大事だった。父さんと結婚したのも、私を産んだのも全部家のため。私のことなんかどうでもよかった」
、それは違うぞ」

 自来也さんの言葉に顔を上げれば、その真っ直ぐな眼差しと目が合った。私はアイスの棒を強く握り締めながら声を張り上げた。

「何が違うんですか! だってそうでしょ、母さんはサクモおじさんのことが大事でサクモおじさんが死んだあとはずっと抜け殻だった! 私のことなんか全然見えてなかった! 父さんの話だって私にしてくれたことほとんどないんですよ! 母さんの話なんか聞きたくないです!」

 こんなに気持ちが昂ったのは、あの夜ゲンマが家に来たとき以来だ。私が決めていいって、十八になるまでに、結婚のことも子どものことも考えてから決めればいいって。
 考えたって一緒だ。私の子どもなんか、絶対に幸せになれるわけがない。こんな悲しみ、誰にも背負わせたくない。

「凪は確かにサクモさんが好きだった。だが、お前の父親のことも愛しておった。凪はお前が産まれて幸せそうだった。澪様もそうだ。だが平和という家の抱える使命があまりに甚大すぎたために、その幸せさえ押し潰してしまったのだ。お前は愛されていなかったわけではない。、凪が潰れてしまったのはサクモさんを失ったからではない。全てを一人で背負おうとしたからだ」

 自来也さんの言葉に、息が苦しくなる。そんなこと、今さら言われたって聞けるはずがない。愛されていたなら、もっと話してほしかった。話を聞いてほしかった。目を見てほしかった。笑ってほしかった。
 一人にしないでほしかった。

 カカシもきっと、こんな気持ちだったのかな。ごめんね。私、何にも分かってなかったね。
 でも少し前にカカシと一緒の任務に行ったとき、私はカカシに何も言えなかった。言いたかったのに、言えなかった。

 自来也さんは大きな手で私の頭を撫でると、もう片方の手で懐から一冊の本を取り出した。

、平和なんてもんはたった一人で成し遂げられるものじゃない。もっと仲間を頼れ。お前を信じ、愛してくれる者を大切にしろ。次に俺が戻ってくるときには、もっと良い女になっておれよ」

 自来也さんはそう言って笑顔を見せたあと、私にその本を押し付けて去っていった。私を信じ、愛してくれる者。またゲンマの顔が浮かんで、自分にうんざりした。ゲンマだけじゃない。大事にしてくれる人なんて、たくさんいる。
 分かってる。分かってるのに。

 自来也さんがくれた本の表紙には、ド根性忍伝というタイトルが書かれていた。