146.悪夢


 びっくりした。心臓が止まるかと思った。

 ゲンマが俺と結婚しろって言い出したとき、嬉しくなかったって言ったら嘘になる。

 ゲンマは前にも、好きな男と結婚すればいいって言ってくれた。好きな人なんていないし、恋愛してるような暇ないって思ってたから、まともに取り合わなかったのが現実だ。
 ばあちゃんが死んで、標ばあちゃんと話して、レイから母さんのことを聞いて。もう家の歴史に、誰も巻き込みたくないと思った。私が子どもなんか産んでも絶対に幸せになれないし、結婚も出産も絶対しないって。

 でも、もしかしたら。ずっとそばにいて、助けてくれたゲンマとなら、違う未来もあるかもしれないって。ゲンマのことをそういう風に見たことはないけど、ゲンマの隣ならきっと、いつか好きになれる気がする。
 だって男の人がどうとかそんなことを考えるよりもずっと前から、ゲンマのことがずっとずっと大好きだったから。抱きしめられたって、嫌だと思ったことなんかないから。

 でも、私はすぐに自分の考えに幻滅した。自分のことしか考えてない。誰も巻き込みたくないから、一人で生きて一人で死ぬって決めたのに。
 ゲンマは私のことが好きなんじゃない。ずっとずっと一緒だったから、泣いてる私を放っておけないだけだ。ゲンマこそ、好きな女の子と結婚して子どもを作ればいい。邪魔したくない。私はコマノみたいに強くなんかない。もっと強くて優しい女の子と結婚すればいい。

 だってゲンマは、好きなんて一言も言わなかった。私が甘えて、大好きなゲンマを繋ぎ止めるわけにはいかない。
 ゲンマには、絶対に幸せになってほしい。

 鏡の前でいつものポニーテールを作って、私は手元のかんざしを見下ろす。
 レイの視線を感じながら、私は大きく息を吐き、ポニーテールの根元にそれを突き立てた。


***


 情報部に配属されて、一年が過ぎた。アオバとツーマンセルの任務にもだいぶ慣れてきて、最近では二人の任務だけでなく、他の小隊に単独で加わることも増えた。もちろんアオバは実力があるので前からそうだったけど、私も馴染みのあるチームだけでなく、面識のないチームにも偵察要員として呼ばれることが増えてきた。

 でも、さすがに暗部と組むことになったときはびっくりした。

「お前、暗部の足を引っ張るなよ」
「わ、分かってるよ」

 事務室を出る前、アオバに冷たく釘を差されて思わず上ずった声が出た。アオバはアオバで別の任務が入っているから、ここでお別れだ。

 四代目から簡単な話は聞いていたけど、一緒に組むメンバーがまだ戻ってきていないということで、顔合わせと詳細な説明はこれからだ。

 火影執務室に入ると、四代目に向かい合うその背中には見覚えがあった。

 見覚えなんてもんじゃない。ずっと私が追いかけ続けていた背中だ。

 隣に並んで、そっと横目に見やる。

 狐のような暗部の面をつけていたとしても、見間違えようがない。

 一年ぶりに再会したカカシは面の下で毅然と顔を上げ、ちらりともこちらを気にする素振りは見せなかった。


***


 いつも明け方に目が覚めて、同じ夢を見ていたことに気づく。

 何度でもフラッシュバックする。見開いたリンの双眸。右手にのしかかる重み。血まみれの手のひら。何度洗っても落ちることのない鮮血。
 リンを守ると約束したのに、そのリンを殺したのは俺自身だ。

「落ちない……落ちない……」

 嘔吐感が込み上げて、シンクに両手をつく。何度も咳き込んで、何度も胃液を吐いた。一度病院で診てもらったほうがいいと四代目から提案されたが、俺は首を振った。
 俺は病気なんかじゃない。この罪を、一生背負って生きていくだけだ。

 リンを殺したあと、と一度だけ顔を合わせた。はやはり、俺を責めなかった。いっそ、罵倒してくれたほうが楽になれるのに。
 オビトのときもそうだ。あいつはそれどころか、俺の写輪眼を見て、ありがとうとさえ言った。あいつに触れられたとき、全身の皮膚が粟立つのが分かった。

 の顔なんて、二度と見たくなかった。

 澪様が亡くなったあと、四代目に言われて一度だけの家に行った。葬儀はすでに終わっていて、誰も出入りする様子はなかった。

 忍猫のひとりに、お前に何の関係があると言われたとき、俺は何も言い返せなかった。そうだ。関係なんかない。あいつはただの同級生で、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 こんな形でも、会いたくなどなかった。暗部にいる以上、任務を共にすることもないと思っていた。

 は戦時中に同じ任務に就いたときとは比べ物にならないくらい成長していた。情報収集、分析に解析、忍猫との連携攻撃、防御。澪様の足元にも及ばないと思っていたが、足元くらいには達しているかもしれない。
 もっとも、俺は澪様の全盛期など父親から聞かされた程度の知識しか持っていないが。

「カカシ、経路はこれで間違いないよ。パックンも、手伝ってくれてありがとね」
「何、お安い御用だ」

 俺の忍犬に笑いかけるを面越しに睨み付けながら、俺は低い声を出す。

「外で名前を呼ぶな」
「あ、ごめんごめん。でもいいでしょ、今くらい」

 敵の本拠地から程遠いとはいえ、暗部の任務で本名など呼ばれたくない。俺に名前なんてない。俺は何者にも、なりたくない。

 子どものように頬を膨らませるの足元で、忽然と現れた忍猫ふたりが不服そうに唸った。
 そのうちのひとりは、あの日、の家の前で話しかけてきた忍猫だった。

、犬の手なんて借りることないにゃ」
「イヤだにゃ、仕事する気なくなるにゃ」
「そう言わないでよ。嗅覚は忍犬のほうがすごいんだから仕方ないでしょ。あ、ごめんパックン」
「何、気にしておらん」
「ごめんね。アイ、サク、その代わり夜は頼りにしてるんだから、お願いね」
「当然にゃ。おやつ寄越せにゃ」
「帰ってからだよ。たんまり弾むから」
「約束、忘れるにゃよ」

 フンと高慢に鼻を鳴らして、忍猫たちが一瞬で姿を消す。そうだ、アイだ。あの日、俺の前に姿を見せたのは、が子どもの頃からずっと一緒にいるアイという名の忍猫だった。

 パックンが俺とを交互に見て、尻尾を振る。

「では、わしもそろそろ戻るぞ」
「うん。ありがとね、パックン」
「うむ。カカシ、ではまたな」

 パックンが姿を消すと、と俺だけが残った。俺はの差し出す経路を受け取り、確認しながら次の手順を考える。

 無事に任務を終え、里に戻る途中で俺たちは交代で少し仮眠を取った。と言っても俺はこういうとき、眠りにつくことはまずない。
 自分の部屋にいても、まともに眠れない。外でもし、悪夢でも見たら。

 離れたところから、抱えた膝に突っ伏して眠るの姿を眺める。澪様を亡くして、四か月ほど。そもそもこの一年顔も見ていなかったのだから、澪様の死がにどんな影響を与えたかなんて、俺に分かるはずもない。
 だが帰還中、はときどき、物言いたげな顔をして俺を見つめていることがあった。俺は当然、気づかない振りをした。

 あいつの顔を見ていたら、最後のオビトの言葉が耳の奥で響くようだった。

『俺が死んだら、のやつ、絶対怒るからさ』

 あいつは怒ってなんか、なかったよ。オビト。

『だから、せめて……かっこいい最期だったって……言ってやって、くれよ……』

 言えるわけ、ないだろう。

 俺のせいでお前が死んだのに。かっこよかったなんて、言えるはずがない。

 俺はお前との約束を、何一つ果たせないまま。

「……カカシ? どうしたの?」

 ぼんやりと顔を上げたが、俺を見て不思議そうに瞬いた。俺は面の下で洟をすすり、頭を振って背を向ける。

「何でもない。行くぞ」
「……うん」

 約束を果たせないなら、せめて。