145.冗談


 の言葉を聞いて、時間が止まったかのようにさえ感じた。

 ほんの半年ほど前、はいつか澪様の決めた男と結婚すると当たり前のように言っていた。家を終わらせないために、自分がそうするしかないのだと言って。

 確かに澪様はもういない。が望みもしない相手と結婚する可能性は限りなくゼロに近くなった――かもしれない。最後の家族が自ら死を選んだことで、自分は必要とされていなかったと思い込み、は心を閉ざして閉じこもろうとしている。

 だからといって。

 俺が腕の力を少し緩めると、はすかさず俺の胸から離れようとした。それは許さずまたきつく抱き寄せれば、俺の胸に頬をつけたままは逃げるように顔を背けた。

「……そんな大事なこと、何も今決めなくていいだろ。家のことなんか関係なくたって、いつかお前の好きな男と結婚して、子どもが欲しくなったら子ども作って、お前が幸せになれるように生きればいい。焦って何でも決めようとすんな」
「無理だよ。だって私は……も忍猫たちも捨てれない。でももう誰もこんな生き方に巻き込みたくない。だから子どもも要らない。結婚相手も欲しくない。私で最後にする。だからもう……私のことなんかほっといて」

 全てを閉ざして、お前が一人になろうとしているのに。放っておけるわけが、ないのに。
 俺にはお前が、こんなにも必要なのに。

 抱きしめる腕に力を込めて、俺はの頭の上に思わずキスをした。初めて吸い込む、体温の混じった地肌の匂い。ほのかに石鹸のような甘い香りが漂う。
 後ろめたさがないではない。だがきっと、は気づかない。せめて、これくらい。

「焦って一人で全部決めんな。お前はまだ十五だろ? 今決めなくていいんだ。イクチだって十八になるまで色んなこと悩みながら、色んな人の話を聞いて先のこと考えて家督を継いだんだ。お前だってできる。結婚も、子どものことだって、それから考えたって――」
「私が子どもなんか産んでも絶対幸せになれない!」

 の悲痛な叫びが俺の胸を抉った。顔を上げたの目は赤く潤んで、至近距離で覗き込む俺を鋭く睨みつけた。

「私みたいな思い、もう誰にもさせたくない。それなら私で終わりにする。私が全部懸けても絶対に平和をつくる。それでは終わりにする」

 家の掲げてきた平和。戦いながら、絶望して、それでも諦めずにだってここまでやって来たはずだ。でも。それでも。

「……お前がそんなもんに、縛り付けられなくていい。家の使命ってやつはこれまでにも形を変えて受け継がれてきた。祈りの一族だったはずなのに、今は忍びの一族になった。お前が次の当主なら、お前が決めていいんだ。辞めるなら辞めればいい。お前だって、お前の子どもだって、何で幸せになれないなんて勝手に決めんだよ」

 は俺の言葉に反発するように、どんどん顔付きが厳しくなっていく。これまで見たの顔で、最も反抗的だと思った。
 それでも、この手を離すわけには絶対にいかなかった。

「ゲンマこそ勝手に決めないで。辞めればいいなんて簡単に言わないで。母さんもばあちゃんも、悩んで、苦しんで、どう考えたって幸せなんかじゃなかった。私だって結局家族に捨てられて最後は一人になった。何で私の子どもがそうじゃないなんて思えるの? ゲンマは家族に恵まれてるから、私の気持ちなんか分かんないんだよ」

 思わず、言葉に詰まった。の言う通りだ。俺は家族に恵まれているし、の気持ちなんてきっと分からない。ただが家族のことで悩み、寂しそうな顔をしているのをいつもそばで見てきた。
 最後に会ったときの澪様の顔が思い浮かんで、歯がゆさにきつく唇を噛んだ。

「……じゃあ、俺が幸せにする」

 それは無意識に口から飛び出していた。の呆けたような顔を見て、自分が何を言ったかを自覚して耳まで熱くなってくる。あのときの澪様の言葉が頭に響いて、俺は少し震える手での肩をつかんだ。
 もう、引き返すことはできない。

「俺が、お前も、お前の子どもも絶対に幸せにする。だから、大人になったら俺と結婚しろ。それまで待つから……勝手に、一人になろうとすんな」

 心臓が、破裂しそうだ。いきなり結婚なんて、話が飛躍しすぎだろ。だが今度はイクチの言葉が蘇ってきて、俺は頭まで沸きそうな熱を少しでも抑えようと必死になった。
 頬を染めてしばらくぼんやりしていたは、すぐにまた怖い顔をして俺をきつく睨みつけた。

「ゲンマ。冗談でも二度とそんなこと言わないで。ゲンマが私の人生にそこまで付き合う必要ないよ」

 喧しく脈打つ鼓動が、急速に静まり返る。
 冗談という枠に押し込めて、は完全に俺を拒絶していた。

 俺がこんな冗談を言うはずがないなんて、だって分かっているはずなのに。

「ゲンマ、ここまで支えてくれて、ありがとう。私はもう、大丈夫だよ」

 そう言って泣きそうな顔で微笑むに、胸が潰れそうになる。

 きっと今、ここで何を言ってもは聞く耳を持たない。
 澪様を失ったばかりで、の心は深く傷を負っている。時間をかけて、伝えていくしかない。

 二度と、離したくなんかないのに。

「ゲンマ、もう離して。私たち、ただの同僚だよ。こんなことしてるの、おかしいよ」

 昔は自分から、飛びついてきたくせに。

 だがあの頃とはもう、全てが変わってしまった。

 俺の気持ちも、の心も。

「……悪い」

 短くつぶやきながら、俺はそっとの肩を離した。

 もう、幼なじみとすら、呼んでくれないのか。

「……たまには母さんの飯、食いに来いよ」
「だって、そんな時間ない」
「何時でもいいんだよ。お前は、うちの母さんにとって娘みたいなもんだから。迷惑かけたって、いいんだよ」

 俯くは何も答えなかった。俺も瞼を伏せながら、最後に右手を伸ばしての頭を撫でた。
 が少し、肩を震わせるのが分かった。

「また来る。おやすみ」

 はやはり、何も言わない。本当はこのまままた抱きしめて、二度と傷がつかないように閉じ込めたい。
 これ以上、が自分を傷つける姿なんて見たくない。

 それでも俺が好きになったのは、忍びで、忍猫使いで、情報部の若手きっての精鋭で、苦しいことがあっても歯を食いしばって立ち上がり、何度でも戦おうとするという女だ。
 本当はとても純粋で、強さも、脆さも、全部一人で抱えて飲み込もうとする、どうしようもなく壊れやすい女だ。

 そんなことはもう、分かってんだよ。

 の家を出て、門のところで振り返る。澪様とここで話をしたのは、ほんの半年ほど前のことだ。あれからたったの三か月で、彼女は命を絶った。何があったかなんて、俺には分からない。にだってきっと、分からない。

 それだけの苦しみを背負うのが家なのだとしたら、絶対にこのままになんてしておけない。

 はきっと、誰にも迷惑をかけないように一人になろうとしている。だがお前のいない人生を生きるくらいなら、お前の痛みも分け合って共に歩くほうがいい。

 今はまだ、伝えられなくても。

 絶対に、お前を一人になんかさせねぇよ。