143.レイ


 またアオバが単独で他の小隊に入って任務に出ていったから、私は少し早めに帰宅した。
 その間に資料の整理を進めておけと言われたとき、頬を膨らませながら「はーい!」って返事したら、アオバはサングラスの向こうでちょっと笑ったみたいだった。

 アオバと軽口を叩きながら、任務に集中しているときが一番嫌なことを忘れられる。
 アオバは余計なこと、聞いてこないから。

 夕食は外で軽く済ませてきた。冷たい家に帰ったら、いつものように手探りで廊下の明かりをつけて自室へと向かう。しばらく布団に倒れ込んで少し眠り、私は薄く目を開けてベッドから降りた。
 机の引き出しを開けて、紫色の小さな棒を眺める。

 中忍になったあと、ばあちゃんから渡されたかんざしだ。実際に着け始めたのは、忍猫使いになった後だけど。
 ばあちゃんをあんな形で亡くしてから、またここに仕舞い込んでいた。

 家を――忍猫たちと戦うことを背負うという覚悟をもって、このかんざしを身に着けた。最初に気づいてくれたのはミナト先生だ。そのあと自来也さんやチョウザ先生、それにリンや紅など、同期のくノ一が「キレイ」「似合ってる」と声をかけてくれた。
 ゲンマやガイはもちろん気づいてなかったし、ばあちゃんも特に何も言わなかった。

 今は、どうすればいいか決めかねている。

「悩むくらいならつければいいにゃ」

 不意に声がして振り向けば、ベッドの上にレイが座っていた。アイとサクは昼間に近くで遊んでいただけで、帰ってからは見ていない。
 レイが私の部屋に来るなんて、生まれて初めてだった。

 黙り込む私に、レイはあっけらかんと言ってくる。

「お前は何でも難しく考えすぎにゃ。頭に飾りをつけるだけに、何を悩んでるにゃ」
「頭に飾りをつけるだけって……そんな単純なもんじゃ、ないよ」

 これはただの飾りじゃない。の歴史と、忍びとして生きたばあちゃんの思いが詰まっている。そんな気がして、今の私はどうしても身につける気にはなれなかった。
 それなのに、標ばあちゃんと喧嘩別れしたあと、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。

 私は家族に失望したはずなのに、を非難する標ばあちゃんの言葉は、どうしても素直に聞けなかった。
 を捨てたら、私に何が残るのか。

「単純にゃ。それはただの髪飾りにゃ。それ以上でもそれ以下でもないにゃ」
「……そりゃ、あんたちにはそうかもしれないけど」

 私が口を尖らせると、レイは大きくアクビを漏らして頭の後ろを掻いた。

「凪もそうだったにゃ。単純なことを、いちいち小難しく考えたがるやつだったにゃ」

 私は驚いて目を見開いた。母さんに付き従っている忍猫はひとりもいないと思っていたからだ。
 いや、もしかしたら分かっていたのかもしれない。私にとってのアイやサクのように、生まれたときから兄弟のようにそばにいた存在が、母さんにもいたのかもしれないって。

「澪は凪が中忍になったときにその飾りをやったにゃ。凪もお前のように小難しいことをずっと悩んで、結局それを川に投げ捨てたにゃ」
「なげ……」

 思わず、手元のかんざしを見やった。年代を感じさせる色合いはあるものの、そこまで傷んだ様子はない。私が身につけていたときは、外したあとに簡単に布で拭き取るくらいのことしかしていなかった。

「母さんは……何を、悩んでたの?」
「凪は子どもの頃から忍びになることに疑問を持ってたにゃ。凪は曾祖母ちゃんっ子で、翠は柱間のために死ぬまで里で舞っていたにゃ。その姿を見て育った凪は、何で自分が忍びにならなきゃいけないんだって悩んでたにゃ。嫌ならやめればよかったにゃ」

 知らなかった。母さんが、忍びになることさえ望んでなかったなんて。
 私は母さんのことも、きっとばあちゃんのことも、何も知らない。

 何を、どんなに悩んでたかなんて、知らない。

 私になんか、話す価値がないと思ったんだろう。

 私は布団の上で気楽に伸びをするレイを見つめたまま、戸惑いながら口を開いた。

「……レイは、ずっと母さんのそばにいたの? 母さんが忍猫使いになれなくても? もし母さんが忍びをやめてたら、どう思った? 忍びなんかやめればよかったと思う?」
「全部答えてやる義理はないにゃ。一つだけ教えてやるにゃ」

 レイは立ち上がり、前脚を少し踏み出した。私を見据える眼差しが鋭く光るのが分かった。

「凪はずっと小難しいことで悩み続けてたにゃ。でも最後に忍びとして生きることを決めたのは凪自身にゃ。あいつは一人の忍びと出会うことで、強くも優しくもなれるということを知ったのにゃ。自分で選んでいいにゃ」

 レイの言っている忍びというのが誰か、分かるような気がした。
 次に顔を上げたときには、レイの姿は忽然と消えていた。

 私は手元のかんざしを見下ろして、大きく息をつく。ずっと、ばあちゃんが身につけていたかんざし。かつて、母さんの手にも渡ったもの。でも母さんはこれを捨てて、きっとばあちゃんとは違う道を歩もうとした。
 もしかしたら、標ばあちゃんとも話をしたんだろうか。への疑問。ばあちゃんへの疑問。そして、忍びそのものへの疑問。

 たとえ環境を変えられなくても、その中で、選び取ることができるものはある。

 ちょうどそのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。