142.轍


 私が会えることを期待していたように、標ばあちゃんも私が来ることを予期していたみたいだった。

 慰霊碑の前で振り返った標ばあちゃんは、私を見て僅かに目を細めた。憐れむでも、責め立てるでもなく、ただ私の来訪を受け止める眼差しに、突然胸の奥が熱くなった。

 標ばあちゃんが静かに口を開く。

「弱音を吐けてる……顔じゃないね」

 その一言で、抑え込んでいたものが一気に溢れ出した。声をあげ、涙をこぼしてしゃくりあげる。標ばあちゃんはそんな私を見ても、何も言わずにただそこにいてくれた。

 私の家族はもういない。最後の一人は私を置いて自ら命を絶った。私は一人になった。

 でも、たった一人。本当の意味で血の繋がった人が残っている。
 うちは標。何十年も前にを捨てて、出ていった人だ。

 たとえを離れても、彼女の中にの血が流れていることに違いはない。それは一年前のあの日、はっきりと分かった。

「標ばあちゃん……私、もうダメだよ……」

 標ばあちゃんはしばらく黙り込んでいた。構わず、私は唇を噛んで泣き続けた。
 私はいつも、ゲンマの胸を借りて悲しみを吐き出してきた。でも今、この胸にぽっかりと空いた穴を見られたくなくてゲンマにさえ背を向けた。

 ゲンマにはきっと分からない。自分の存在そのものが、足元からぐらつく感覚。私はゲンマやネネコちゃんのように、愛されて生まれたわけじゃないって。

 分かってたつもりだったけど、やっぱり信じたかったんだ。私は、愛されていたって。必要とされて生まれたんだって。
 でも、結局家族はみんな、私なんか置いていなくなったじゃないか。

「お前が駄目なんじゃない。間違っているのはだ」

 標ばあちゃんの言葉に、私は思わず息を呑んだ。いつの間にか涙は引っ込んでいて、にじむ視線を上げると、標ばあちゃんの鋭い眼差しと目が合った。記憶にある標ばあちゃんのどの表情よりも、それは厳しく見えた。

「分かるだろう。平和なんて、たった一握りの生き残りしかいない小さな一族で、一体何ができるっていうんだ。里のため、仲間のためでさえない、そんな理想論を掲げて自分を犠牲にして、最後にあんな結末を選ぶしかないなんて間違ってるだろう。お前まで、そんな腐った伝統に固執して心を殺すことなんてないんだ。お前はまだ、引き返せる」

 それは、もしかしたらずっと望んでいた答えだったのかもしれない。私の中で、何かが弾けて全身を震わせた。
 でもすぐに、喉の奥から息苦しさが込み上げた。

「だって……私が捨てたら、の歴史は終わるのに。五百年繋いできたものが途絶えるのに。忍猫たちだって私のそばにいてくれる……簡単に、捨てろみたいなこと言わないでよ」
「お前も死にたいのか!」

 標ばあちゃんが突然張り上げた声に、心臓を射抜かれたようだった。標ばあちゃんは記憶の中でいつも穏やかな口振りで話していた。
 こんなに感情を顕にすることは、私の覚えている限り一度もなかった。

「澪は強かった。確かに強かった。すべてを捨てても家のため、平和のため、里のために人生をかけた。あぁ、素晴らしいことだろう。だが結果どうなった? なぜ娘の墓の前で死んだ? 凪だってずっと苦しんでいた。老いた澪が娘に詫びるために死んだとしたら? なぜ死をもって詫びなければならないほどのものを娘に負わせた?」

 鬼気迫るその表情に、鼓動が速さを増していく。ずっと疑問に思っていて、それでいてそんなこと、考えることさえ憚られると思っていた。
 でも、かつて家を捨てた標ばあちゃんは、今はっきりとそのことを私に突きつけてきた。

「お前だって今、弱音を吐けるはずの相手に弱音を吐くこともできずにこんなところで泣いてるっていうのに……このままを背負い続けるなら、お前もいつか同じ道をたどるぞ。そのとき泣いてくれる者が、今のお前ならいるだろう。その者を泣かせることになってもいいのか? の伝統は、その者よりも重いのか?」

 目の前に、ゲンマの顔が浮かんだ。ゲンマの存在が、この十年、私の孤独な心に明かりを灯してくれた。友人がいても、仲間がいても、どこか遠いことのように感じる瞬間があっても、ゲンマだけはいつもそんな私の手を引いて、陽のあたる場所に呼び戻してくれた。

 大人になった今でも、また日陰に閉じこもろうとする私を抱きしめて、私の本当に欲しい言葉をくれた。
 大切だ、必要だって。

 でも本当は、私が一番欲しかったのはゲンマからの優しい言葉じゃない。
 ゲンマみたいに、家族から無条件に愛されることだった。

 でも、もう、二度と叶わない。

 私は家の跡継ぎで、忍猫使いで、史上最年少で情報部に配属された有望な若手。その評判が、私の存在を繋ぎ止めている。

 もし、を捨てたら? ヒルゼン様は、ご意見番は? ばあちゃんを慕う、ゲンマのおじさんやいのいちさんたちはどう思う?
 生まれたときからそばにいるアイたちでさえ、私を見放すんじゃないの?

 そうしたら、私は、どうやって立っていられるっていうの?

 俯き、黙り込む私に、標ばあちゃんは嘆息混じりに言葉を続けた。

「澪にもかつて、大切に想う者がいた。だが、若くして忍猫使いとして才能を開花させた澪は、戦争を経験することでお前と同じようにの使命と現実の間で彷徨い続け、やがてその者のことさえ遠ざけるようになった。平和などという強大な魔獣が、心を食い荒らしていくのさ。お前の母親も同じだ。凪は、澪や私よりもずっと繊細な心の持ち主だった。だからこそ忍猫を受け入れることもなく、心を病んで戦場から戻らなかった。忍びとして生きる道を選んだことで、我々は二重の苦しみを背負うことになったんだ」
「二重の……苦しみ?」
「お前も知っているだろう。はもともと忍びではなかった。初代火影と共に木の葉に入ったのち、我々の母の代に忍となったんだ。祈りの限界を感じた母が、二代目火影の時代に忍術を学んだ。自ら戦いの場に立ち入ることで、祈りとのバランスを取ることができずに苦しんだ。戦争と平和は、相容れないものだからだ。戦争の中に平和はない」

 標ばあちゃんは矢継ぎ早にそう語ってから、少し息を整えた。積年の思いが溢れ出したようだった。標ばあちゃんは一度伏せた瞼をまた開き、まっすぐに私を見据えた。

「木の葉になど来なければよかったのに。所詮、忍びの治める世界に平和なんてない。戦いながら祈ったって、平和は実現できない。おまけに澪は祈りさえ捨てた。苦しみを増やしただけだ。先祖の轍を踏み、お前まで犠牲になることはない」

 口の中が渇いて、次第に息ができなくなる。脈打つ鼓動に意識を奪われそうになる中、不意に脳裏にオビトの顔が浮かんだ。
 私は息を吹き返し、眉間に力を入れて叫んだ。

「標ばあちゃんこそ理想論だよ! じゃあ忍びにならなければ平和は実現できたの? できなかったから新しい選択肢として曾祖母ちゃんが忍びになったんでしょ? 標ばあちゃんはを捨てたくせに曾祖母ちゃんの選択を責めることなんかできないよ。それに結局、標ばあちゃんだって忍びと結婚したんじゃんか。しかも初代火影とこの里を作ったうちは一族の人と。オビトのおじいちゃんも、オビトのおじさんやおばさんも、オビトだってみんな忍びとして生きたし、標ばあちゃんだって忍びだったのに……何で全部否定しようとするの? 標ばあちゃんは、オビトのおじいちゃんと結婚してうちは一族になって、幸せじゃなかったわけ? 何のためにを捨てたの?」

 湧き上がる衝動に任せて、怒りも悲しみも全てをぶつける。標ばあちゃんはしばらくの間、口を噤んだけど、小さく息を吐いてまた話し始めた。

「アケルは……オビトの祖父は、平和を愛する人だった。だからといって、己や周りの人々を無下にするようなことは決してなかった。平和という大義の下に、近しい人間を軽んじるようなことは絶対にしない人だった」

 標ばあちゃんの言葉の一つ一つが、私の傷ついた心をさらに抉るようだった。
 分かっている。標ばあちゃんは私を責めたくて言ってるんじゃない。私が潰れてしまわないように、私がこれ以上苦しまずにすむように全力で引き止めようとしてくれてるって。

 でも。簡単に捨てられるくらいなら、初めから悩んでない。なんて知らないって拗ねて背を向けていた子ども時代から、ようやく覚悟を決めて使命のために生きると歩き出したところだったのに。

 私は、どうすればいいの。

「もういい……標ばあちゃんには分かんないよ。標ばあちゃんには標ばあちゃんの苦しみがあったと思う。でも標ばあちゃんだって、ばあちゃんの苦しみは分かんなかったはずだよ。私の苦しみだって分かるはずない。標ばあちゃんは……もう、の人間じゃない」

 目元を拭って踵を返す私の背中に、標ばあちゃんの鋭い声が届いた。

。進んで一人になろうとするな。それがを継ぐ者の悪癖だ。今なら帰れる。お前が帰りたいところに、帰れる。いつか一人になったとき、もう帰れる場所はないかもしれないんだぞ」

 また、ゲンマの顔が浮かんだ。どうして。私が一番帰りたいのは、ゲンマのところなんだろうか。だとしても、全部捨てた私なんか待っててくれるんだろうか。
 ううん、ゲンマはに何の関係もない。子どもの頃から一緒だった、妹みたいな私を放っておけないだけだ。いつかまた恋人ができたとき、私のことなんか構ってたら迷惑をかけるし、きっと結婚だってできない。引き留めてちゃいけない。

 ゲンマはただの、同僚だ。

 標ばあちゃんの言葉を振り切るように首を振って、私は慰霊碑をあとにした。
 オビトの誕生日に買ったフリージアは、私の手の中に収まったままだった。