140.拒絶


 放っておけなくて。離れようとする心を引き留めたくて。
 ポケットに手を入れておいて良かった。の頬を両手で掴むと、ひどく冷たく感じた。の少し潤んだ瞳がまっすぐに俺を見上げる。

 この胸の痛みを何と呼べばいいのか、俺には分からなかった。

「俺の前で……そんな顔、すんなよ」

 お前には、笑っていてほしいのに。
 今にも泣きそうな顔で笑ってみせる姿なんて、二度と、見たくなかったのに。

 は俺の顔を見上げながら、少し困ったように眉尻を下げた。

「……だって、どんな顔していいか、分かんないんだもん。笑ってないと……もう二度と、笑えなくなる気がするんだもん」
「いいから。俺の前では、全部出していいんだ。真面目にやれって、中途半端すんなって……言っただろうが……」

 あれから、一年も経っていないのに。あのときの傷だって、きっと、まだ癒えてなんかいないのに。
 どうして、こんなことが続くんだ。の心を、守ってやりたいのに。

 俺の手の中で、逃げるように視線を落とし、は消え入りそうな声でつぶやいた。

「……だめだよ。もう、戻れなくなっちゃう。だって私、誰からも愛されてないし必要とされてない。私がいても意味ないって分かったら、もう……立てなくなっちゃう」

 何を、言ってるんだ。
 こんなにも、お前のことが好きなのに。こんなにも、俺はお前を必要としているのに。

 お前でなければ駄目だって、もう、何度も思い知らされてきたのに。

「……何、言ってんだよ。お前は……愛されてるだろ。仲間だって……俺たち家族だってみんな、お前のことが好きだし、お前が必要だ。何で全部、なかったことにすんだよ」

 思わず、頰を掴む指に力が入ってしまう。は気まずそうに目を泳がせたあと、きつく目を閉じて首を振ろうとした。

「だって……家族でさえ、私のこと必要としてなかったんだよ? 私のことが大事なら、ばあちゃんは私だけ残して死んだりしなかったでしょ? 母さんだってそう、私のことなんか全然見てなかった。ばあちゃんだって私のことなんか、ほんとはどうでも良かったんだよ」
「違う! 少なくとも澪様は、お前のこと考えて――」
「考えてるなら自殺なんかしないでしょ!」

 目を開いたは叩きつけるようにそう叫んで、俺をきつく睨みつけた。目尻から涙がこぼれて、俺の手のひらを濡らした。
 何を返せばいいか、分からなくなった。

 こうなることなんて、容易に想像できたはずだ。
 壊れやすいが、最後の家族をこんな形で失うことで、最後の砦が崩れ落ちることなんて。
 こうなることが分かっていて、それでも尚この結末を選ぶしかなかった澪様への怒りが噴き上がった。

 同時に、何もしてやれない自分への憤りが指先まで全身を支配した。

 こんなにも、愛しているのに。

「……帰って。一人にして」

 俺を撥ねつけることなんて、これまでなかったのに。
 きつく目を閉じたは、俺の手の中で顔を逸らして閉じこもった。どんなにつらいことがあっても、いつもそばにいさせてくれたのに。今は俺の心さえ締め出して、たった一人になろうとしていた。

 だが忍猫さえそばにいないこの状況で、俺はどうしてもの前を離れる気にはなれなかった。

 震える声で、がまた俺を拒絶する。

「あのときは……一人になりたいなら出ていくって言ったじゃん。出てってよ……一人にして」
「……分かった」

 短く言葉を返して、の頰からそっと手を離す。はどこかほっとしたように表情を緩めたが、俺はすぐに彼女の腕を引いてその小さな身体を抱き締めた。
 が小さく息を呑むのが分かった。

「これだけは忘れんなよ。少なくとも俺は……お前が一番、大事だ。お前が必要だし、お前にも俺を必要として欲しい。誰かにいてほしくなったら……絶対、呼べよ。アイたちに言ってくれれば、俺、いつでも来るから」
「……仕事、あるくせに」
「今のお前なんか、ほっとけねぇだろ」

 確かに、すぐに飛んでくるなんて現実的じゃない。それでも伝えたかった。お前が大切だと。お前のことが必要だと。
 だから、勝手に一人になろうとしないでくれ。

 を抱きしめるなんて、あの日以来だった。今の俺はとっくに自分の気持ちに気づいているから、同じ過ちは繰り返さない。
 肩を掴んで身体を少し離せば、はもう怒っても笑ってもいなかった。ただ濡れた瞳でまっすぐに俺を見上げるだけだ。

 のことが好きで、たまらなく愛おしかった。

 本当はもうこのまま、これ以上傷がつかないように鳥籠にでも入れてしまいたい。
 こんなことを考えている時点で、俺の愛情なんて歪んでいるのかもしれない。

 それでも、離したくない。
 ずっと、そばにいたい。

「……ゲンマは何で、そんなに私のこと気にかけてくれるの?」

 俺が手を離したとき、俯いたが淡々とそう聞いてきた。

 そんなこと、とっくの昔に分かりきってる。

「お前のことが……大事だからだよ」

 は喜ぶでもなく戸惑うでもなく、ただ俺の目を見つめるだけだった。
 今は何を聞いても、右から左へと流れていっているようだった。

 それでも伝え続けたい。

 俺は絶対に、お前を一人にはさせないから。