139.立場


 澪様が自害したという話は本部にもすぐに広まった。

 澪様は三代目の時代に実質里のナンバーツーだった。晩年は表舞台から退いたとされるが、実際はアドバイザーとして根強い影響力を持っていた。
 事実、最後の戦争で澪様はほとんど本部に缶詰だった。母親も戦地にいて、はいつもあの家に一人だった。あの性格だから、忍猫たちがいなければもっと孤立していただろう。

 それとも今以上に、笑顔を取り繕うのが上手くなっただけだろうか。

 必要最低限の人員を残して、澪様の葬儀に参列することは本部の全員に許可された。ライドウとイワシは残ると言った。俺は少し悩んだが、参列すると言って本部を離れた。

 着替えるために帰宅すると、ちょうど里にいた親父も戻ってきていたところだった。澪様の自死というショッキングな出来事に、俺たち一家は黙って着替えを済ませた。

「ゲンマ、どうした」

 家を出る直前、不意に足を止めた俺を親父が振り返った。俺は慣れない靴を見下ろしたまま、小声で囁く。

「やっぱり俺、やめとくわ」
「どうした。澪様にはお前も世話になったんだろう?」

 親父は咎めるでもなく、ただ不思議そうに聞いてきた。母さんは何も言わない。
 俺がガキの頃から、両親は俺に特別何かを強いることはなかった。

 こういう両親だから、俺はいつだって安心してこの家に帰れたんだ。

 俺はポケットに両手を突っ込んだまま、しばらく黙り込んだ。どう話せばいいか分からなかった。
 のそばにいたい。あいつはどうせ、無理をするから。大丈夫だと強がるから。だが澪様を悼む気持ちにはどうしてもなれなかった。

はどうする? 放っておくのか?」

 何も言わない俺を見て、親父は静かにそう問うた。俺は例の噂が親父の耳にまで届いていることを思い出して少し身体が熱くなったが、小さく息を吐いて呼吸を整える。

「……そばに、いてやりたい。でも……澪様のことは、許せない」

 こんなこと、他の誰にも言えるはずがない。何があったかなんて俺に分かるはずもない。死者を謗ることは、一般的には人道にもとるとされる。
 それでも。のことを考えたら、俺はどうしても澪様の選択を許すことができなかった。

 俺の気持ちを聞いても、両親は顔色一つ変えなかった。それはきっと俺の家族もずっと、ガキの頃からあいつのことを見てきたからだ。
 澪の孫ではなく、という人間そのものを。

「少し、歩くか」

 親父は出し抜けにそう言った。驚く俺の隣で母さんは穏やかに微笑みながら、親父の腕に手を伸ばしてそっと袖を握る。喪服で睦まじく寄り添う姿に若干の違和感を覚えたが、俺はおとなしく両親に従って外に出た。

 の家とは反対方向に、俺たちは静かに歩いた。途中、同じような格好をした数人とすれ違ったが、取り立てて言葉を交わすこともなく黙って歩みを進める。
 そうしているうちに、里外れの墓地に着いた。奥には慰霊碑もある。

 澪様は、ここで亡くなっていたらしい。

「サク――」

 ある墓石の上で寝転がる忍猫のひとりに声をかけたが、サクは耳をパタパタと少し振っただけだった。その下に、凪という名が見える。の母親で、澪様の一人娘。澪様は娘の墓前で毒を飲んで亡くなっていたそうだ。

 忍猫たちは気づかなかったのか? そんなはずはない。彼らはどこにでも現れる。主人がこんなに近くで死のうというときに、誰も気づかないわけがない。
 そのときふと、昔のアイの言葉を思い出した。俺が澪様を主人と呼んだとき、アイは自分たちはそんな関係じゃないと一蹴した。あのときアイは、生き方より死に場所を選ぶことのほうが大切だと言った。

 なぜ誰も止めなかったのか。止めて、くれなかったのか。

 俺たちは伯父の墓に手を合わせてから、慰霊碑へと近づいた。無数の名前が刻まれた石碑。ここには伯父も、の母親も、オビトもリンも名を連ねている。
 英雄なんて呼ばれていても、つまるところ犠牲者でしかない。戦争の、犠牲者。生きたくても、生きられなかった人たち。

 それを知っていながら、どうして。

 また胸が絞られるような感覚に千本を噛む俺の隣で、親父が静かに口を開く。

「お前の言っていることは分かるよ。それでも、俺が今ここにいられるのは、紛れもなく澪様のおかげだ。俺は、最後のお別れをしてくるよ」

 親父は何を強いるわけでもない。ただ、自分の立場を言っているだけ。
 俺の立場なんて、決まっている。

 ただ、のそばにいたいだけだ。


***


 両親がそっと俺に目配せして帰ったあと、と二人になった。

 はしばらくぼんやりと立っていたが、やがて顔を上げて小さく微笑んだ。

 への想いを自覚して一年近くが経った。それまで何とも思わなかった距離に戸惑い、どうということのない眼差しに乱され、己の醜さに失望して胸を締め付けられてきた。
 だがこれは、そのいずれとも異なる感情だ。

 そんな顔、二度と見たくない。

「ゲンマも、今日は来てくれてありがとう。私は大丈夫だよ。大丈夫だから、ゲンマも帰って」

 絶対に、言うと思った。俺は唇を噛み締めて目を細める。ここに来る前、千本はポーチに片付けた。落ち着かない思いでポーチを探りかけて、俺は慌てて手を止めた。

「……お前、なんつー顔して大丈夫とか言ってんだよ」

 少し語気を強めて詰め寄れば、は一瞬息を呑んだものの、すぐに目を細めてもう一度笑った。
 胸を抉られるような痛みが走るのが分かった。

「ゲンマ、心配症だよ。私は大丈夫だから」
「……そんな分かりやすい顔で、強がってんじゃねぇ」

 放っておけなくて。離れようとする心を引き留めたくて。
 ポケットに手を入れておいて良かった。の頬を両手で掴むと、ひどく冷たく感じた。の少し潤んだ瞳がまっすぐに俺を見上げる。

 この胸の痛みを何と呼べばいいのか、俺には分からなかった。