132.約束
澪様は、凪のように静かだった。言い回しは少しきついが、その瞳を見ていると、彼女はやはりの家族なのかもしれないと感じた。
だから俺は、つい、そのまま話してしまった。
「……俺の母は、民間人です。家に帰れば母がいたし、俺にの気持ちは分からない。でも、任務でいつも家にいない父が、俺を大事にしなかったと思ったことはありません。家にいる時間、疲れていても親父はいつも俺の話を聞いてくれた」
親父はいつも俺の目を見て話を聞いてくれたし、時間の取れるときにはよく修行をつけてくれた。おじさんだってそうだった。
「ガキの頃、はいつも寂しそうに見えました。いつも笑ってるのにふとしたときに寂しそうで、うちに来ると本当に嬉しそうに笑ってた。は飲み込みも早いし頭の回転も速いのに、いつも自信がなさそうで、自分は足りてないと思い込んでた。は……家族と話をすることを、ガキの頃から諦めてた」
の母親に会ったのは、二回だけ。娘が疲弊し、傷ついているのに、そのことには目を向けず、娘に声をかけることもせず、俺を遠ざけようとしただけ。の気持ちなんて、きっと考えることもせずに。
だが今思えば、の母親がそうならざるを得なかったのは、彼女自身がそのやり方しか知らなかったからではないか?
「は何でも一人で抱え込んで、何でも一人で決めようとする。結局それに耐えられずに潰れそうになる。もっと早く、誰かに話せてたら変わったこともあるかもしれないのに。それは、のせいですか? 忍びなら、仕方のないことですか?」
澪様は俺の目をまっすぐに見たまま、しばらく黙っていた。鼓動が速まり、額に汗がにじんでくる。思わず目を逸らしたくなったが、俺は意地でも澪様の視線を受け止めることに集中した。
澪様はやがて、糸でも切れたように瞼を伏せた。
「お前は本当に、のことをよく見ているな。好きなのか?」
「当然にゃ。好きすぎて気持ち悪いにゃ」
「サク、よしな」
澪様の直球の質問と、サクの横槍に、心臓が跳ねる。全身が激しく脈打って頭が真っ白になりかけたものの、俺は静かに深呼吸して、ゆっくりと口を開いた。
「……好きです。のことが、大好きです。子どものままじゃいられないのは、仕方ないことかもしれません。でも、好きな男と結婚するなんて、別に普通のことでしょう? そんなことも望まずに、家のことや使命のことばかり考えて、あいつが心を殺していくのを見ているのが……俺には、耐えられない」
「好きな男と結ばれれば、それが幸せなのか? お前がを幸せにできると?」
まるで値踏みでもするように目を細める澪様に、一段と顔に熱がこもる。だが俺はかぶりを振って声を絞り出した。
「……それが俺じゃなくても、いいんです。は俺のことなんか、男だと思ってない。あいつが幸せになってくれるなら、それでいいんです」
「そうかい。俺が幸せにしてやるっていうほどの気概はないんだね?」
その言葉にハッとして顔を上げれば、澪様も忍猫たちもどこか冷ややかにこちらを見ている。今までとは違う居心地の悪さに唇を引き結ぶと、澪様は俺から視線を外して小さく息を吐いた。
「どうすればよかったと思う?」
意図が分からず、俺は黙って澪様を見つめる。彼女はどこか遠くを見据えたまま、あとを続けた。
「絶対に幸せにすると言う男を、娘の結婚相手に選んだ。もちろん、好きな男と結婚できればそれが一番いいだろう。だが、報われるとは限らない。そしてどうなったと思う? 娘が幸せになれたのか」
の母親の姿を、思い出す。は父親について、死んだということの他は一度だって語ったことはない。の母親を思い返してみても――幸せそうには、とても見えなかった。
人の心の中なんて、分からないとしても。
「お前は、自分がを幸せにすることはできないと?」
澪様の視線が、再び俺を捉える。喉の奥が張り付いて、呼吸さえ苦しくなる。それでも、何か言わなければ。何とか唾を飲み込みながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……幸せに、したいです。でも、が俺を望まないのに、俺のそばに留めておくことはできない。が自分で選んだ場所で、幸せになってほしい。が、俺を必要としてくれるなら……俺のできることは、全部やりたい。には……幸せに、なってほしいです」
俺が絶対に幸せにする、なんて言えない。の心の傷がどれほどのものか、想像することしかできないのに。の傷を癒すことなんて、俺にできるはずがない。
ただそばに寄り添い、見守ることくらいしか。
どうすれば、を幸せにできる? 痛みも幸せも、分け合える?
「ゲンマ、お前の気持ちは分かった。に無理をさせたくないのは、私も同じだ。だが我々には、血を遺すという重大な使命がある。に子どもができなければ、は五百年の歴史に幕を下ろし、忍猫との絆も解消される。初代火影、柱間様との約束も反故にすることとなる」
澪様の口から突然飛び出した名前に、目を見開く。初代火影に、一体何の関係があると?
「お前には話しておこう。私の曾祖母は、柱間様が木の葉隠れの里を創設する前、ある村で巫女として神事を賜っていた。だが、その村は戦火に見舞われて壊滅したのさ。その後、柱間様が里を創るために仲間を集めていたとき、私の曾祖母に出会ったんだ。柱間様は平和のために祈りを捧げる我らに感銘を受け、仲間になってほしいと声をかけた。だが曾祖母は、争いを生んできた忍びの存在を認めなかった。柱間様は曽祖母を何度も訪ね、約束したのさ。必ず平和な世界を作る。の力を借りることもしない。ただそばにいて、自分たち忍びが平和を成すのを見届けてほしいと。曾祖母は柱間様の熱意に打たれ、合流することを決めた。我々は本来、単なる見届人だったのさ。忍びが過ちを繰り返さないための」
そう、だったのか。家は生き残りが少ない小さな家だというのに、なぜ強力な忍び一族の多い木の葉においても重視されているのか、不思議に思うこともあった。忍猫使いとしての希少性だけでは説明できない何か。
それはきっと、初代火影との約束。忍びとしてではなく、平和を祈る一族としての特異性。
だが皮肉にも、家はすでに忍びとなり、祈ることをやめた。
「……家が忍びになった時点で、その約束はもう白紙なんじゃないですか?」
すると澪様は小さく吹き出して笑う。そのとき初めて、口元が少し、に似ているかもしれないと思った。
「お前ははっきり物を言うな。護衛なら、相手は選べよ?」
「選んでます。もっと言葉を選んだほうがいいですか?」
また小さく笑って、澪様が首を振る。
「いや、ここで腹の探り合いをしたところで意味はなかろう。そのままでいい。お前は実の息子よりも、インカによく似ているな」
その名前を、久しぶりに耳にした。不知火インカ。第二次大戦で殉職した、伯父の名前だ。確かにイクチは、おじさんというよりもおばさんに似ているかもしれない。その記憶も、もうすっかり薄れて消えかけているけれど。
澪様が一度伏せた瞼を開けてまた俺を見たとき、もうその顔は真剣そのものだった。
「柱間様は私が祈りを捨てたことを知れば、きっと悲しまれるだろう。だが扉間様は私の選択を認めてくださった。私が神事を捨て、忍びとして生きると決めたとき、お前は見届人であると同時に体現者なのだと言ってくださった。柱間様との約束は、形を変えて今もの中に生きている。少なくとも私は、そう思っている」
いつの間にか、澪様の周りにさらに三匹の忍猫が集まっていた。アイはいない。きっと今も、のそばにいるのだろう。
「我々が忍びである以上、いつまでも生きていられる保証はない。できるだけ早いうちに、子を設けることが最優先だ。が十八になったとき、まだが自分の望む相手を見つけられていなければ、そのときは私が結婚相手を探す。それがリミットだ。分かるな?」
片眉を上げる澪様の問いかけに、どきりとする。俺はしばらく目を泳がせてしまったが、膝の上で握る拳に力を入れ、もう一度まっすぐ視線を上げた。
「……分かりました」
澪様の信頼に、応えたい。
を、幸せにしたい。
だが、それは思い上がりじゃないのか? 幸せにするなんて、俺に一体何ができるっていうんだ。
が俺を望む保証なんて、どこにもないのに。
「ゲンマ」
客間に背を向けた俺に、澪様の小さな声が届く。
振り向くと、忍猫たちに囲まれた澪様はひどく疲れ切っているように見えた。
「のことを、頼んだよ」
思わず、息が詰まる。俺はこぼれかけた嗚咽を必死に飲み込み、深く頭を下げて、足早にの家をあとにした。
の家族は許せない。子どもだった俺は、かつて何度もそう思った。
だが今は、愛し方が分からなかっただけかもしれないと。
今の俺が、もう十年も隣にいたに、どう向き合っていいか分からないように。