131.客


「ばあちゃん、私また今日から任務だから、しばらく帰ってこないよ。じゃあ、行ってきまーす」

 が情報部に配属されて、半年。私が寝入ったあとに帰宅することがほとんどだし、朝も早いうちから出て行く。自分が情報部にいた頃のことを思い出して、少し感慨深くなった。

 もっとも、私が情報部に配属されたのは十五歳のときだ。それでも、当時は最年少と持て囃された。
 そんな私でさえ、扉間様はなかなか認めてくれなかった。

(……久しぶりに、思い出したな)

 きっと、時間がありすぎるのだろう。余計な感傷に浸ることが、増えた。

 凪の部屋はあれからほどんと手つかずだったが、少しずつ整理を始めた。残すべきもの、破棄すべきもの。判断に迷うものは、ひとまず別の箱に入れておく。最後まで残ったものは、に任せようかとも思っている。
 はきっと、気づいている。凪が愛していたのは自分の父親ではないこと。それが自分の慕う、サクモであったこと。

 私も四十年前、まったく同じことで心に傷を負った。自分は、望まれた存在ではないのではないかと。
 凪はどうだ? あの子ももしかしたら、同じように。

 自分が愛の結果生まれた命ではないと知ることは、不幸なことかもしれない。それなら、愛する人と結ばれなかった者は? 誰もが本当に、愛の下に生まれたのか?
 そもそも愛などというものが、本当に存在するのか? それはどうすれば証明できる? 心なんて、目には見えないものを。

 祈りも同じだ。目に見えなければ、ないものと同じ。

 そう信じて、私は祈りを捨てた。結果、世界は変わらなかった。

 血を遺すために必要なのは、愛ではない。

「澪、客にゃ」

 ライに呼ばれた気がして顔を上げると、ライの娘のレイだった。跳ね上がった鼓動を宥めて、小さく息を吐く。馬鹿か。ライは死んだ。私のために、霧隠れで死んだ。
 こんな老いぼれ放っておいて、あの子の道標になってほしかったのに。

「澪様、いますか?」

 玄関先から聞こえてきたのは、若い男の声だった。


***


 俺は一体、こんなところで何をやっているんだ?

 の家には、何度も来たことがある。だがそれは、だけがいるときだ。の家族は戦争に駆り出されて留守にしていることが多かった。両親が忍びなら、それがむしろ多数派だ。
 は大抵、この家に一人きりだった。忍猫を除けば、だが。

 ゆったりと玄関に現れた澪様は、薄い藤色の着物を軽やかに着こなしていた。かつて俺たちの演習場に現れたときは、濃紺の忍び装束を身にまとい、きっちりした髷を結い上げていた。今は肩より少し長い髪を、低い位置でひとまとめにしているだけだ。
 ずいぶん、雰囲気が変わったなと思った。

「ゲンマ、どうした。ならいないよ」
「いえ……澪様に、どうしてもお伺いしたいことがあります」

 どうしても? 本当に?
 夕刻のこんな時間に、わざわざ引退後の澪様を訪ねてまで?

 だが澪様はさほど驚いた様子もなく、軽く親指をあげて奥を示した。

「いいよ、上がんな」
「……すみません。お邪魔します」
「何だい、今さら。散々うちには上がってるだろ?」

 落ち着きなくソワソワしていた心臓が突然跳ねたので、俺は咳き込みそうになった。澪様はそんな俺を横目に見て微かに笑っている。さらには、彼女の足元になぜかサクがいて、ジト目でこちらを見ていた。
 は今、アオバと偵察任務に出ているはずだ。サクは、アイと一緒に出かけていると思った。

 澪様は俺を客間に通して、一度出ていった。ここは、ほんの数か月前に、暗くなるまで何時間もを抱きしめて過ごした場所。リンの死に塞ぎ込んでいたが、俺の腕の中で声がかれるまで泣き続けた場所。
 のことが好きだと、俺が初めて気がついた場所。

「おかしいにゃあ、熱でもあるにゃ?」

 忽然と俺の膝の上に現れたサクが、目を細めて覗き込んでくる。何もかも見透かされているようで、俺はますます全身が熱くなるのが分かった。
 あのとき、アイとサクも確か近くにいたはずだ。

 俺がサクを膝から転がしたところで、澪様が茶を淹れて戻ってきた。

 澪様の緑茶よりも、の淹れた茶のほうが美味く感じた。

「で、何だい? 私に聞きたいことってのは」

 雰囲気は以前よりも柔らかいが、やはり背筋はピンと伸びてどこか威厳を感じさせる佇まいだ。俺も姿勢を正し、だがどこから話せばよいやら考えあぐねていると、サクともう一匹を肩に乗せた澪様はあっさりと核心を突いた。

「お前が私を訪ねてくるなんて、千本の修行ってわけじゃないだろう? か?」
「当然にゃ。こいつ、最近を見る目が変にゃ」
「なっ!」

 サクが悪びれもせずに言ってのけたので、思わず声が裏返った。心臓がバクバクと早鐘を打ち、まともに澪様の顔を見られなくなって目を泳がす。やめろ、まじでやめてくれ。もしかして、澪様にまで全部筒抜けなんじゃ。

 澪様は小さく笑ったようだった。

「サク、茶化すのはよしな。で、ゲンマ。がなんだって?」

 くそ、サクの野郎。だからわざわざ、が里を留守にしているときを選んだのに。

 俺はしばらく膝の上で拳を握って黙り込んでいたが、観念して息をつき、顔を上げた。
 澪様はゆったりと微笑みながら、忍猫の背中を優しく撫でていた。

「……俺は、ガキの頃からずっと、を見てきました。あいつは本当に強くなったし、俺だって信頼して、尊敬してる。忍猫使いになって、家を背負う覚悟を決めて、まだ子どもなのに、大人と肩を並べるような仕事をしてる。俺だって仲間として誇らしい。でも、」

 脳裏に浮かぶ、の笑顔。無邪気に笑う、幼い頃のじゃない。俺の知らない眼差しで微笑む彼女の横顔が、胸を締め付ける。

「でも……あいつはまだ、子どもです。なのに……一人で全部、背負いすぎなんじゃないですか? 平和なんて、大人だって抱えきれないものを背負って、いつか澪様の決めた男と結婚して、跡継ぎを産むって言ってるんですよ? まだ十四のが、恋愛なんかしてる暇ないって。恋愛くらい、すればいいのに。好きな男と結婚して、幸せになればいいのに。あいつは当たり前みたいにそんなことを望みもしない。澪様は……本当に、それでいいと思いますか?」

 こんなことを澪様に言って、何になるというんだ。思い直してくれたら、澪様がに許婚を探すような未来を避けられるかもしれない? そうだとして、自身が考えを変えるか?

 澪様は僅かに目を細めたものの、さほどの間を置かずに淡々と答えた。

「私たちは代々、そうして血を遺してきた。それに、あいつ自身がそう決めたのなら、その意思は尊重すべきではないか?」
「……本当にそれが、が自分で望んで決めたことだと思いますか?」

 俺はやっとのことで口に出したが、澪様は顔色一つ変えない。無性に腹が立ってきて、絞り出す声が少し震えた。

「あいつは……本当はめちゃくちゃ素直で、無邪気で、自分の気持ちに真っ直ぐなのに……戦争でつらい目にたくさんあった、だから仕方ないかもしれない。でも……あいつは自分の気持ちを隠して、俺の前でも作り物みたいな顔で笑おうとするようになった。それは、仕方のないことですか? 俺たちは忍びだからと、受け入れるしかないことですか?」

 忍猫たちは澪様の肩に乗ったまま、窺うようにこちらを見ている。澪様はしばらく黙っていたが、俺の目を真っ直ぐ見据えたままはっきりと言った。

「そうだ。私たち忍びは、そうして大人になる」
「違う! 忍びだから避けられないんじゃない! 元はと言えば――」

 思わず声を荒げそうになって、踏みとどまった。駄目だ。澪様は変わった。いや、本当は昔のように戻っただけかもしれない。だが俺は、親父たちの慕うかつての澪様を知らない。
 今、これを言ったって、何も変わらない。

「……すみません」
「何だ。言いたいことがあるなら、はっきり言え」

 澪様は、凪のように静かだった。言い回しは少しきついが、その瞳を見ていると、彼女はやはりの家族なのかもしれないと感じた。