127.幸せ
イクチに会ってから、なかなかゲンマと顔を合わせる機会がなかった。私は相変わらず忙しくて、丸一日休めることなんて三か月に一回あるかないか。でもアオバが私に何の断りもなく休んだり早く帰ったりしたときは、他の部員が「さっさと帰りなよ」って声をかけてくれるから、まだマシだった。
その日も、朝イチで普通に出勤したら、アオバは休みだって言われた。
「、帰るにゃ。おやつを買いに行くにゃ」
アイが頭に乗って尻尾で顔を叩いてきた。払い除けても繰り返し叩かれる。私はついにアイの尻尾を摘みあげた。
「そうだね……ちょっと買い物行こうかな」
「行くにゃー! 干し肉買うにゃー!」
「はいはい……じゃあ、ごめんなさい、今日帰りますね」
「うん、毎日お疲れさま。また明日ね」
事務室のメンバーに声をかけて、私はそのまま廊下に出た。いつの間にかサクも現れて肩に乗り、私は頭の中で今日の予定をざっと考える。買い出しに行って、そのあとはもうゆっくりしようかな。
火影邸を出る前、久しぶりにイワシに会った。あの任務以来だ。資料を運んでいる途中みたいで、彼は私に気づくと人懐っこく微笑んだ。
やっぱり笑うと可愛いな。男の子だし、言わないけど。
「、お疲れさま」
「うん、イワシもお疲れさま。久しぶり」
あれから二か月くらいかな。イワシは忍猫使いとしての私の噂は前から知ってたみたいで、畏まって敬語を使おうとしてきたけど、同じ中忍だし年齢も一つしか違わないし、本部勤務は同期なんだからタメ口でいいよって何回か言い聞かせて、やっとそうしてもらった。
ライドウはかなり年上だけど私と同じスタンスだし、ゲンマは特に何も言ってなかったけど、周りの空気感に合わせてるんだろう。イワシはライドウやゲンマにもタメ口で話していた。
あ、アオバはもちろんあの態度だから、イワシはアオバには敬語だった。
「今日は外なのか? アオバさんは?」
「休みだって。一応相方なんだから一言言ってほしい。だから私も帰る、先月から全然休んでないし」
「忙しそうだな……あ、今日はゲンマも休みだよ。家にいるんじゃないかな」
イワシは無邪気にそう言ったけど、私はちょっと引っかかった。私の顔を見て、イワシはしまったという顔をする。
「……ひょっとしてイワシも、あの変な噂、真に受けてる? 私とゲンマが付き合ってるって」
「あ、いや、そういうつもりじゃなくて……」
「ただの幼なじみだよ。下忍のときからずっと同じチームだったし、そういう風に見えるかもしれないけど。何もないから」
「そ、そうだよな。ごめん、何でもない」
イワシはあっさり引き下がったので、私もそれ以上追及するのはやめた。イワシと別れて火影邸を出た私は、一度帰宅するか、まっすぐ商店街に向かうか悩んだ末、そのまま買い出しに向かうことにした。
商店街の入り口で、私は私服姿のゲンマに遭遇した。
***
イクチに娘が生まれたことは、あの任務から戻ったあとに知った。どうやら俺の誕生日の少し前に生まれたらしい。
可愛げのないお前に似ませんように! とイクチは俺を見て笑っていた。本当に幸せそうだった。
好きな女と結婚して、好きな女が自分の子どもを産んでくれる。イクチが結婚した当時、俺は好きな女もいなかったからどこか他人事のように感じたものの、戦時中にも何気ない幸せを育む姿に、多少の羨ましさは感じたような気がする。
だが今は、あの頃とは違う感慨があった。
俺の好きな女は、好きな男と結ばれるという当たり前の幸せすら、願うこともしないからだ。
「こないだちゃんに会ったぞ。さすがに忙しそうだったけど、たまには一緒に息抜きでもしに来いよ。アオバに任せてたらいつまでも休めねぇだろ?」
「俺に言うなよ……俺だって新人なんだよ」
「そんなデカい図体して情けないこと言ってんなよ」
いつの間にか、俺はイクチの背丈を追い抜いていた。だが中身はきっと、昔のまま。
イクチにとって俺は、世話の焼ける従弟のままなんだろう。
に声は、かけられなかった。俺より遥かに多忙な部署なのに、どのタイミングでいつ声をかけていいか分からなかった。下手に本部で呼び止めることはできない。また、迷惑をかける。
今日は、俺ひとりでイクチの家を訪ねる予定だった。どうせまたのことを突かれるだろうが、仕方ない。差し入れとして、リクエストされた実用品をいくつか買っていくことにした。本部勤務になったんだから、俺より給料いいだろって。年下にたかるな。
商店街の入り口で、俺は仕事着のに遭遇した。
「あ、ゲンマ」
「……どうした、外回りか?」
「ううん、今日休みになったんだ。買い出ししようと思って。ゲンマも休みなんでしょ?」
誰かから聞いたらしい。は俺が両手に提げた買い物袋を見て、あっと声をあげた。
「ひょっとして、イクチのとこ行くの?」
袋の口から覗いている赤ん坊用のボトルを見て、すぐに思い当たったらしい。俺が頷くと、はちょうどよかったと嬉しそうに笑った。
それだけのことで、俺の心臓は高鳴った。
「私も行きたいって思ってたんだ! 急ぐ? 私も今からお祝い買うから一緒に行っていい?」
「、おやつが先にゃ」
「赤ん坊はいつでもいいにゃ」
「よくないよ! 次いつゲンマと休みかぶるか分かんないじゃん!」
アイとサクがひょっこり顔を見せて不服そうに鳴いたが、は怒った顔で首を振った。だが結局、アイたちに尻尾で叩かれ、凄まれては一番に乾物屋に行った。
無事に干し肉を得た忍猫たちは、もう用はないとばかりに煙のように消えてしまう。気づいたら二人きりになっていて、俺は落ち着きなく目を泳がせた。
はそんなことには全く気づかず、小さな子ども向けの玩具屋を探した。
「何がいいかな。二か月ならこういうオモチャ喜ぶかなぁ……ねぇ、ゲンマどう思う?」
「俺だって分かんねぇよ。でもこういうのなら、並んで寝るだけで落ち着くんじゃねぇか?」
「あ、可愛い。でもあんまり大きすぎると危ないかなぁ……」
ぬいぐるみのコーナーで小難しい顔をして頭を抱えるを、横目に見る。いつか、が自分の子どものためにこういう店にまた来るんだろうか。そのときは、笑っているんだろうか。
家のために、使命のために、ろくに知りもしないような男と寝るんだろうか。
身勝手な想像をして、胸が苦しくなる。そのとき俺は、今みたいに平気な顔をして実用品でも差し入れてやるんだろうか。
今でさえ身体の自由が利かなくなるのに、俺にそんな器用な真似ができるだろうか。
結局、は小さなクマのぬいぐるみと、タオルで作られたブーケを買った。
そういえば、は自分の部屋にクマのぬいぐるみを置いていたな。あのときと同じように、抱きしめて眠るんだろうか。
寂しさを埋めるために、必要なんだろうか。
「いこ、ゲンマ」
「……おう」
と一緒に店を出て、隣に並んで歩く。もしこんなところを本部の誰かに見られたら、またまことしやかに妙な噂が立つだろう。そう分かっていても、そんなことはもうどうでもいい。
今この瞬間、と過ごす時間が愛おしかった。