128.命
イクチの家は、広かった。ヒルゼン様の家や、記憶にあるシカク先生の家くらい広かった。
不知火家は木の葉隠れ創設期から里にいるんじゃなくて、しばらく経ってから合流したらしい。それでもこの広さの敷地があるってすごいなと思った。
「いらっしゃい、ちゃん。よく来てくれたね」
玄関先で出迎えてくれたイクチは、初めて見る私服姿だった。これまで中忍ベストに額当てという仕事スタイルしか見たことがない。でも深い藍色の着流しに薄手の羽織を引っ掛けて、屋敷の雰囲気と相俟ってどことなく厳かに見えた。
「お、お邪魔します……」
「どーぞどーぞ。ゲンマ、ちゃんも来るなら先に言えよ。ろくなもん準備してねぇよ」
「たまたま会ったんだよ。仕方ねぇだろ」
「ふーん。たまたま、ね」
イクチが意味深な顔でゲンマを見たから、まさかこんなところにまで噂が届いているのかと思って私は急に恥ずかしくなった。
「ご、ごめんね、急に! 急に休みになったんだけど、ゲンマがイクチのとこ行くって言うからついてきちゃった。私が悪いの、ごめん」
「ちゃんはいいんだよ。忙しいもんね。せっかくの休みなのに来てくれてありがとう」
そう言ってイクチが見せてくれた笑顔は昔から知っている穏やかなもので、私は緊張していた気持ちが少し解れるのが分かった。
ちょうどそのとき、奥から甲高い泣き声が聞こえてきた。
「あー、起きたかな。二人とも、上がれよ」
「お、お邪魔します……」
その間も泣き声は続いていて、なんだかすごくドキドキした。サンダルを脱いで上がったゲンマの後ろについて、庭に面した廊下を歩く。大きな池があって、手入れされた緑もたくさんあって、ラフな私服姿のゲンマと仕事着のままの私は、ひどく浮いているような気がした。
イクチは奥まった部屋の前で立ち止まり、少し腰を屈めて声をかけた。赤ん坊の泣き声は、その中から聞こえるみたいだった。
「コトネ、今大丈夫か? 代わろうか? ゲンマが来てくれたけど」
「あ、ちょっと待って。今からおっぱいあげるから。はいはい、ちょっと待って」
少し低い、落ち着いた女の人の声が聞こえる。私がドキリとして目線を泳がせていると、イクチはゲンマに向き直って慣れた口振りで指示をした。
「ゲンマ、お前、ちゃんと客間で時間潰しててくれ。終わったら呼びに行くわ」
「おう。、あっちだ」
ゲンマに促され、私は元来た通路を戻る。イクチは笑顔でしばらくこちらに手を振ったあと、先ほどの部屋に入っていった。
赤ちゃんの泣き声は、そこで収まった。
客間も広くて、大きな座卓が一つと、隅に積まれた座布団が四つ。私が座布団を敷いている間に、ゲンマはどこからか冷たい麦茶を二つ持ってきてくれた。完全に、勝手を知ってるって感じだった。
「ありがと。ゲンマは、ここによく来るの?」
「まぁ、本家だからな。二年前にイクチが家を継いだけど、それまでは分家が持ち回りでここの管理やら事務作業やら任されてたから。俺も親父がいないときはたまに手伝ってた」
「……そうなんだ」
すごく、しっかりした家なんだな。うちは歴史が長いとは言え、もう生き残りはばあちゃんと私しかいない。資産もそんなにたくさんあるわけじゃないから、誰かの手を借りる必要はないだろう。
荷物を置いて、私は開いた襖から庭先を眺めた。暑い夏も終わり、季節は秋に差し掛かっている。日中はまだ汗ばむ日もあるけど、朝晩はだいぶ過ごしやすくなってきた。
私たちは、静かにお茶を飲んで過ごした。以前なら、もっと色んなことを話して、たくさん笑い合っていた気がするけど。私は初めての屋敷ということもあるし、何だかちょっと緊張してしまって、ゲンマと何を話せばいいか分からなかった。
三十分くらい経ったかな。終わったぞって、イクチが呼びに来てくれた。
私はまた緊張しながら、イクチとゲンマのあとに続く。ゲンマは慣れてるだろうから平然としてるけど、私はイクチの家も奥さんも、もちろん赤ちゃんも初めてだ。ドキドキしている私を振り返って、ゲンマが「落ち着けよ」って笑った。
そしたら急に、肩の力が抜けて自然と笑顔になれた。やっぱりゲンマのそばは落ち着くな。
さっきの部屋は、もう襖が開いていた。イクチとゲンマが先に入ったのを見て、私はまず顔だけで覗き込む。
すると、小さく吹き出す音が聞こえてきた。
「可愛いわね。さ、遠慮しないで、どうぞ」
ワンテンポ遅れて、それが自分に向けられた言葉だと気づいて私は赤くなった。畳の部屋には布団が二つ敷いてあり、そのうちの一つですやすや眠る小さな赤ちゃんと、赤ちゃんに寄り添いながら上半身を起こした綺麗な女の人と。
イクチとゲンマはすでに布団の周りに腰を下ろしていたので、襖の陰に隠れた私だけが彼らを見下ろす形になっていた。
「えと、初めまして……です」
「初めまして。コトネです。お噂はかねがね。今日は来てくれてありがとう」
噂。どんな噂。私はちょっとハラハラしたけど、追及するのは止めておいた。きっと、ろくなことにならない。
コトネさんは大きな瞳が印象的な、落ち着いた雰囲気の美人だった。産後二か月であまり眠れていないのかもしれない。ちょっとクマができていたけど、穏やかに微笑みながら私を見ていた。
「、お前も座れ」
いつまでも突っ立っている私を見かねたように、ゲンマが自分の傍らを手で示した。私はやっぱりまだ緊張したまま、何とかゲンマの隣に正座で座り込んだ。
でも、眠っている小さな小さな赤ちゃんを見たら、胸がすごく熱くなってドキドキした。
「可愛い……名前、なんていうんですか?」
「ネネコよ。ネネコ、ゲンマおじちゃんのお友達のちゃんよ。良かったわね」
「ゲンマおじちゃん……」
思わずオウム返しに呟いてゲンマを見ると、ゲンマは心なしか頬を染めながら「何だよ」と睨んできた。そっか、ゲンマはおじちゃんになるのか。なんだか新鮮で、ちょっと笑ってしまった。
私がネネコちゃんの寝顔をじっと見つめていると、コトネさんはそっと微笑んだ。
「ねぇ、ちゃん。良かったら、ネネコのこと撫でてあげて?」
びっくりして思わず声が出そうになった。私は慌てて口元を押さえながら、
「え、でも、起こしちゃうかも……」
「大丈夫よ。今はお腹いっぱいでよく寝てるし、ネネコ、撫でられるのが大好きだから」
どうしよう。めちゃくちゃ緊張する。ほんとに触っていいのかな。起きないかな。泣かないかな。ハラハラしている私の隣で、ゲンマが長い腕を伸ばしてネネコちゃんの頭を撫でた。
ネネコちゃんはほんの少しだけ身じろぎしたけど、穏やかに寝息を立てていた。
「お前は少し遠慮しろ。ちゃんが先だ」
イクチが呆れたように笑ったけど、ゲンマはそれには答えず目を細めて優しくネネコちゃんを見つめていた。その横顔に、なぜか心臓がぎゅっとなる。私も小さく深呼吸してから、恐る恐るネネコちゃんの頬に手を伸ばした。
私が指先でちょっと頬をつつくと、ネネコちゃんが口角を上げて笑ったように見えた。
「わっ! 笑った!」
思わず声が出てしまって、慌てて口を噤む。良かった、起きてない。ドキドキしている私を見ながら、イクチが楽しそうに目元を緩めた。
「この時期の笑顔は笑ってるっていうより反射なんだよ。でもやっぱ……可愛いよなぁ」
めちゃくちゃ、デレデレしてる。すごく微笑ましくて、そんなイクチを見つめるコトネさんの眼差しもすごく穏やかで、私はこの場にいられるだけで身体中がぽかぽか温かくなるのを感じた。
それと同時に、鼻の奥がツンと痛くなった。
「ちゃん?」
コトネさんの声で、ふと我に返る。気づいたときには、私は目からぼろぼろ涙をこぼして泣きじゃくっていた。どうしても止められなくて、震える両手で顔を覆って下を向く。
あの戦争で、あまりに多くの命を失った。物心ついた私にとって、最初の身近な人の死はサクモおじさんだ。それから母さんがおかしくなって、私の家族は壊れてしまったと思う。今、ばあちゃんと少しずつ歩み寄れているような気はするけど、きっと昔のようには戻れない。
仲間もたくさん失った。大切な友人を、立て続けに亡くした。あまりにも痛ましい形で。誰も、想像しなかったような事実を覆い隠して。
失われたものは戻らない。二度と。
それでも。
「……この子は……戦争を知らない世代に、なってほしい……」
絶対に、繰り返したくない。
あんな思いは、二度と。
「そうだね。俺たちもそう願ってるし、そうしなければならない責任があると思ってる。でもちゃん、一人で背負いすぎるのは違うよ。君は、俺たちは、歯車の一つに過ぎない。みんなで助け合っていけばいい。何でも一人で抱え込まないで、ゲンマも、俺たちもいるからね」
イクチの優しい笑顔は、かつてのミナト先生を思わせる温かいものだった。胸が苦しくなって、私は泣きながら目を閉じる。忘れないと。もう、終わったことだ。私は私に、できることをする。
イクチ、コトネさん、そしてゲンマ。不知火家の人たちは、やっぱりみんな温かい。
「……うん」
こうしてきっと、今日もまたどこかで新しい命が生まれている。
ネネコちゃんの寝顔をもう一度見つめて、私は震える声を絞り出した。