126.安心


「あ、ちゃん! 久しぶり!」

 アオバに押し付けられた資料の整理で朝から分析班の部屋と資料室を往復している途中、明るい声に呼び止められて私は振り返った。
 軽く手を振りながら近づいてくるのは、すごく懐かしい顔だった。

「イクチ! 久しぶりだね、元気?」
「元気元気。ちゃんは大丈夫? 偵察班と分析班の兼務なんだろ? 体壊さないようにね」

 ゲンマの従兄のイクチはいつも明るくて気さくに話しかけてくれる。正規部隊のはずだし、ここ二年くらいは顔も見てなかった。でも私の配属のこと、知ってたんだ。
 イクチは私の近くまで来て、相変わらずゲンマによく似た眼差しで微笑んだ。

ちゃん、なんかすごく大人っぽくなったね」
「……そう? そんなことないよ。今組んでる先輩にはガキガキって言われて嫌われてる」
「あぁ、アオバでしょ? 気にしなくていいよ、あいつ内弁慶で有名だよ。ちゃんみたいな優秀な後輩ができて面白くないんじゃない?」
「ハハ……まぁ、そういうことにしとく」

 アオバの気持ちなんて分からないし、分かったところで何が変わるわけでもない。私は私の仕事をするだけだ。
 火影邸の通路でイクチと立ち話をしていると、また懐かしい声がして私は顔を上げた。

「何だ、お前たち。ずいぶん親しげだのう」
「あ、自来也さん。帰ってたんですね」

 気さくな笑顔を見せて現れた自来也さんに私は声をかける。自来也さんは諜報のプロで、本部に所属してるわけじゃないけど単独で外に出て色々な情報を集めてくる。昔はばあちゃんがやっていたことらしい。

 自来也さんは一抱えもある資料を持った私を見下ろして苦笑いした。

「早速コキ使われとるようだのう」
「え、こんなのコキ使われてるうちに入んないです。朝から深夜まで丸二週間、ホコリかぶってる報告書の分類と索引作りやらされたのがちょっときつかったです」
「え、アオバのやつ、ちゃんにそんな仕事させてんの?」
「ハッハッハ、まぁ、分析力を磨く下地になるのは確かだな」

 自来也さんは豪快に笑ってから、急に思い出したようにイクチを見た。

「そういえば、お前、娘が生まれたそうだのう」
「そうなんすよ! さすが自来也様、お耳が早いですね」

 イクチの顔がすごく明るくなって、本当に嬉しそうに綻んで目元のシワが深くなった。これまで見たイクチの笑顔で、一番幸せそうだった。
 私はびっくりしながら歓声をあげた。

「イクチ、子どもできたの!? ていうか結婚してたの!?」
、そんなことも知らんかったのか? まだまだ忍猫の扱いが甘いのう」

 自来也さんがニヤニヤ笑いながら言ってくるので、思わず頬を膨らませてしまった。

 確かに私はまだまだ、里の中のことだってごく一部しか知らない。ばあちゃんも自来也さんも、里のことなら何でも知っているという感じらしい。
 偵察任務は戦争中から少しずつ慣れてきた気はするけど、やっぱり私はまだまだだなと思った。

 イクチは照れくさそうに頭を掻きながら、

「まぁ、戦争中だったし大々的なことは何もしてないんだ。仕事が少し落ち着いたらゲンマと一緒に娘の顔でも見に来てよ。待ってるから」

 そうか。失われる命もあれば、芽吹く命もある。戦争が終わって、少しずつ、新しい世代に変わっていく。
 里のトップだって変わった。これからゆっくりと、新しい時代が始まるのかもしれない。

「うん、絶対行くね」

 ものすごく、胸が温かくなった。


***


 結局、俺はから離れられないらしい。

 これ以上近づいたら駄目だ。俺はのそばにいると冷静でいられなくなるし、俺の態度が分かりやすいせいで例の噂は全く収まる気配がない。
 俺のせいでの仕事の足を引っ張るし、は恋愛なんてまるで興味がない。これ以上、彼女のそばにいたって迷惑をかける。

 だから離れなければならない。距離を取らなければ。そう、思ったのに。
 の傷ついた顔が、ひどく心臓を締め付ける。

「ごめん、迷惑だったよね。もうしない。ごめんね」

 チームが解散して別々の場所で仕事をするようになっても、は俺の誕生日を覚えてくれていた。ついに俺も十八になった。大手を振って酒も飲めるし、自来也様から誘われていた夜の店だって行ける。
 もちろん、興味があるわけじゃない。経験はしたし、今は以外の女なんて目にも入らない。だが世間の目から見ても、大人とされる年齢になったということだ。

 こんなにも、惚れた女に子どもみたいな接し方しかできないのに。

 離れようとしたって、結局、お前のその手を離すことなんてできないのに。

「昔みたいにそばにいられなくたって、ずっとずっと大事だよ。私だってゲンマの力になりたいよ」

 俺だって。お前が俺を幼なじみとしか思ってなかったとしても、これからもそばにいて、お前の力になりたいよ。
 たとえお前が、自分の幸せを願わなくても。

 そのときお前の隣にいるのが、俺じゃなかったとしても。

 月明かりの下、俺を見上げるの真っ直ぐな眼差しに、息が苦しくなる。俺はいつの間にこんなにも、のことが好きになっていたんだ。
 仲間はとっくに気づいていたのに、俺だけが――俺とだけが、何も知らないまま、俺たちは幼なじみだと信じ切っていた。

 そしては、きっと今も。

「ごめんね、ゲンマのそばにいたら安心しちゃってすぐ触っちゃう。これからは気をつけるよ」

 触れられるだけで、全身が熱くなる。いつまたあのときのように、自分の身体が言うことを聞かなくなるか分からない。それなのに俺は、また彼女に触れられたいと強く願ってしまう。

 俺のこの欲望が、いつ彼女の信頼を裏切るかも分からないのに。

 十四歳のの隣は、もう昔とは違い、ひどく居心地が悪かった。