117.決壊


 どれくらいの時間、そうしていただろう。

 気づくと外はすっかり日が落ちて、気温もだいぶ下がってきている。ゲンマの温もりに安心して、少し微睡んでさえいたから、ハッと目を開いた私は顔を上げてゲンマを見た。
 私の背を抱き寄せたまま、ゲンマは目を閉じていた。でも私が見上げていることに気づいて、彼もまた薄く瞼を開いて私を静かに見下ろした。

「……ゲンマ」
「ん?」

 我ながら、ひどい声だった。多分いつもより低くて、かすれて不明瞭になってると思う。でもゲンマは変な顔ひとつしないで、穏やかに私の目を覗き込んできた。
 なぜだか少し、どきりとした。

「お腹すいた」

 私が小声でつぶやくと、ゲンマは吹き出すようにして破顔した。やっぱりゲンマの笑顔、好きだなって思った。

「俺も。腹減った」
「……ごめん、こんな時間まで付き合わせて」
「いいよ、そんなもん。少しは気ぃ晴れたか?」
「うん……だって、どうにもならないもん。これから、やれることをやらなきゃ」

 私がそう言うと、ゲンマは優しく微笑んで、頭を撫でてくれた。やっぱりすごく、安心した。私はどれだけゲンマの優しさに救われてきたんだろう。ゲンマがいなかったら私は、とっくの昔に潰れていた。
 私もほんの少しでも、ゲンマの助けになれていたらいいのに。

「何か買ってきてやろうか? それとも何か作る?」
「ありがと。でもばあちゃんが作ってくれてたご飯あるから、大丈夫」
「食えそうか?」
「うん……もう大丈夫。お腹すいたし、食べれる。ありがとね、ゲンマ」

 するとゲンマが私の目元を指で拭ってくれたから、くすぐったくて思わず笑ってしまった。ほんとに、子どもみたいで恥ずかしい。でも大好きなゲンマとなら、こういう時間も嫌じゃない。

 ゲンマにまた恋人ができたとしたら、絶対にこんなことしてちゃいけない。だからもう、これっきりだ。自分にそう言い聞かせて、私はゲンマの胸からやっと身体を離した。
 足を組み直しながら、ゲンマがポーチから取り出した千本を咥えた。

「じゃあ、そろそろ帰るわ。明日、演習場で」
「うん……ありがと」
「飯食って、ちゃんと風呂も入れよ?」

 ゲンマはさらりとそう言ったけど、私は顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなって後ろに下がった。そうだった。私、何日もお風呂も歯磨きもしてないのにゲンマに何時間もくっついて抱きついてしまった。ヤバい、申し訳なさすぎる。

「ご、ごめん、臭かった……?」
「臭いにゃ」
「あんたちに聞いてないっ!!」

 どこからか湧いて出たアイとサクが茶化すのを撥ねつけて怒鳴る。するとゲンマは急に膝立ちで私との距離を詰めてきて、何を思ったか腕を伸ばして私の背中を抱き寄せた。
 びっくりして声が裏返った。

「ゲ、ゲンマ?」
「まぁ、いつもと違うにおいはする」
「や、やめてよ離れて! 臭いから!」
「イヤだ」

 即答したゲンマが、私をそのまま両腕でぎゅうと抱きしめた。いつもと違うにおいって、それ、臭いってことじゃん。恥ずかしすぎる。私は一刻も早くゲンマから離れようとしたけど、力が強すぎて全然逃げられなかった。

「意地悪! やだ、離して!」

 でもゲンマは、何も言わなかった。私ががむしゃらに抜け出そうとするのを許さないできつく抱きしめたまま、私の頭に顔を擦り寄せているのが分かった。髪なんか絶対臭いし、ベタついてるはず。嫌がらせかとも思ったけど、何だか少し、違和感を覚えた。
 私はゲンマの胸に顔を寄せたまま、何とか視線だけでも上げてゲンマの顔を見ようとした。でも、全然見えない。ゲンマの首筋しか、見えない。

「……ゲンマ? どうしたの?」

 ゲンマにも何か、あったのかもしれない。そう思ったけど、ゲンマは何でもないと呟いて、そっと私の身体を離した。その顔は、どう見ても何でもない顔じゃない。

 なんだか、胸騒ぎを覚えた。

 徐ろに立ち上がるゲンマを見上げて、声をかける。

「ゲンマも、何かあったら言ってよ? 私じゃ役に立たないかもしれないけど……私だってゲンマが困ってたら、何かしたいって思うよ」

 私がどれだけゲンマに救われてきたか、きっとゲンマは分かってない。
 ゲンマは少し驚いた顔をしたあと、私の前に屈んで、両手で私の頬を包み込んだ。すごく大きくて、温かい手だった。

「お前は早く、元気になれ。俺は、お前の笑ってる顔が一番好きなんだからな」

 何でかな。ゲンマに好きって言われるのは、初めてじゃないのに。
 何だか今日はちょっとだけ、これまでとは違う息苦しさがあった。

 ゲンマの優しい目を見つめ返して、私は照れくささをごまかすように微笑んだ。


***


 落ち込むを抱きしめてやることなんて、別に初めてじゃない。

 俺がいなくたって、はもう大丈夫だと思っていた。だがオビトの死に動揺し、さらにリンまで失って、あのときのように疲れ果てて。

 一人で立てなければ意味がないかもしれない。だがは、本来家族の支えが必要だったときに、それを得られないまま大きくなった。俺はその様子を、間近で見てきた。
 一人で立ち直る方法が、きっとまだ分からない。

 リンの死には、何か複雑な事情が絡んでいるらしい。だがが俺にも話せないと言うときは、きっと里の機密に関わる。
 忍猫使いとして目覚めたあの日から、は俺たちとは違う世界に生きていると感じることが増えた。

 俺に話せないと言うことを、が俺に話すことはない。そんなことを強いるつもりはない。
 だが寄り添うことくらいなら、今の俺にだってできるだろう?

 俺の胸に飛び込んで、は激しく泣きじゃくった。怒り、悲しみ、もどかしさ、無力感、そして孤独。そんなものが綯い交ぜになって、恐らく、話してはならないことまで話してしまったときも、ある。だが俺は聞かなかったことにして、黙っての背中を抱きしめてやった。

 何時間も経って、外が少しずつ暗くなってきて。冷え込みを紛らわすように、の小さな身体をこれまでより少し強く抱いた。
 は泣き疲れたのか、次第に静かになった。そして時々微睡んで、俺の胸に完全に身体を預けた。

 異変に気づいたのは、そのあとだ。俺は何だか身体が熱くて、少し息苦しいことに気づいた。何が起きているか分からず、の身体を抱きながら、意識を徐々に自身へと向けていく。
 そこで初めて、俺は自分の身にあり得ないことが起きていると気づいた。自覚した瞬間、全身から汗が噴き出した。

 俺の半身が熱を帯び、硬く勃ち上がっていた。全く想定していなかった事態に、俺は軽くパニックに陥った。
 いや、前言撤回だ。軽くなんてない。俺は完全にパニックになった。

 抱いているのはで、俺はのことなんて、一度もそんな風に見たことはなかった。幼少期から知っていて、いつも俺のあとを雛鳥みたいについてきて、妹のように大切に思い、守ってやりたいとそばで見守り、共に切磋琢磨して互いに強くなった。
 が女だと気づいたときでさえ、だからどうということもなかったし、あのとき川原で寄り添ってきたときも俺は何とも思わなかった。は俺にとって妹みたいなもので、掛け替えのない幼なじみで、尊敬するチームメイト。それ以上でもそれ以下でも、なかったのに。

 あのをただ、抱きしめているだけなのに。

 が曲がりなりにも女だからか? 俺にぴったりと寄り添って、控えめながらも胸の膨らみが密着しているから?
 は恐らく風呂にも入ってない。季節は冬だしそこまで気になる体臭というわけではないが、少し湿った薫りが漂った。いつもと違う匂いに、反応してしまった? 俺、そういう性癖なのか?

 俺は静かに深呼吸して、昂ぶった気持ちを落ち着かせようとした。が、これが逆効果だった。むしろ感覚が研ぎ澄まされてしまい、状況は悪化した。俺は死に物狂いで、彼女に絶対にバレないように少しずつ腰を後ろに引いた。

 何だ、何だ、何なんだ?

 のことなんて、何とも思ってないはずなのに。

 目を覚ましたに至近距離で見つめられたとき、俺はもう自分の中にある感情が昔のそれとは違うかもしれないと気がついた。触れたいし、離したくない。はひどい顔だし、目は赤く腫れ上がっていて、声もかすれてだいぶ低い。それなのに愛おしくて、俺が涙を拭ってやるとくすぐったそうに身を捩って笑う姿に、心臓がぎゅっとなった。

 が俺から離れていったとき、腕を掴んで引き止めたかった。だがこれ以上は、駄目だ。泣き止んだが退いた以上、俺にあいつを抱きしめる権利なんかない。

 は女で、俺は男だ。

 だからが自分の臭いを気にして聞いてきたとき、思わず距離を詰めて勢いよく抱きしめてしまった。もう、これが、最後かもしれない。俺はもう、自分の気持ちの変化に気づいてしまった。

 俺はもう、純粋な愛情でお前を支えてやれない。

 この湿った薫りも濡れた頬も赤く腫れた瞳も、カサついた唇も全部、焼き付けておきたい。

 は最初、恥ずかしさのあまり俺の腕の中で暴れまくっていたものの、俺の様子がおかしいことに気づいたらしい。
 どうしたの、と心配そうに聞いてきた。

 そんなことを、聞かないでほしい。そうだ。俺はもう、どうしようもないくらい、どうかしている。

 俺のためにも何かがしたい。そう訴えかけてくるの気持ちは、きっと昔と変わらない純粋な愛情なんだろう。俺は狂おしいほどに胸が締め付けられると同時に、自分の醜さに嫌気が差す。
 俺はもう二度と、お前を腕に閉じ込めて誰の目にも触れさせたくないなんて、考えているのに。

「お前は早く、元気になれ。俺は、お前の笑ってる顔が一番好きなんだからな」

 お前はきっと俺の言う「好き」という言葉が、昔と変わらない意味だと思い込んでいるだろう。

 俺の脳裏に浮かぶのは、別れを告げてきたコマノの今にも泣き出しそうな顔だった。

「あんたは私より、あの子が大事なのよ」

 ――気づいていなかったのは、俺だけだったんだろうな。