104.大切なもの
ばあちゃんが退院できるまで、あれから一か月近くかかった。その間に警務部や本部で極秘に調査が進められ、霧隠れで術をかけられた油女シキの単独犯という結論になったらしい。ばあちゃんが受けたシキの毒を解毒したのはシビさんだし、油女家の嫌疑もすぐに晴れたそうだ。
ばあちゃんの指導は厳しかった。まずは投擲の基本訓練から始まり、狙った場所に確実に突き刺すために要した期間は二か月。こんなに難しいと思わなかった。それを口から吹いてるゲンマは、やっぱりおかしい。
「もともと楊枝吹がお家芸の不知火だ。形状が同じなら原理も同じなんだろう。まさか千本を吹く奴が出てくるとは思わなかったがね」
「ハハ……ばあちゃんは不知火家のことよく知ってるの?」
「いや。だがゲンマの伯父のことはよく知ってる。不知火本家の当主だったやつだ。惜しいやつを亡くした。戦争は、その繰り返しだ」
ゲンマの伯父さんのことは、昔ゲンマから聞いたことがある。すごく、優秀な人だったって。
でも戦争はそんなこと関係ない。力があっても、死ぬときは死ぬ。
ばあちゃんは演習場の隅で千本吹の修行に勤しむゲンマをよく見ていた。そしてやがて、ゲンマにも声をかけるようになった。
「お前が昔から世話になってるからね」
ばあちゃんは私にそう言って、ゲンマにも時々千本の指導をしているようだった。あるときガイが横から素早く割り込んできて、「澪様! ボクは!?」と息巻いたが、「私は体術のことは分からないよ」と即答されて撃沈していた。
「だがお前は、私がこれまで見てきた体術使いの中で忍耐力が桁違いに優れている。良い指導者に恵まれたんだな。これからも精進してくれ」
「あっ……ありがとうございますっ!!!」
ガイが涙目になって地面に頭がつきそうなくらい深々とお辞儀した。その姿を見てばあちゃんは思わず笑ってしまったみたいだった。ガイの明るさは、やっぱり知らないうちに周囲を笑顔にしてしまうようだ。
ガイの体術の指導者といえばガイのおじさんだ。おじさんを認められたようで、私も心がじわりと温かくなった。
ゲンマの十七回目の誕生日の日、修行を終えてゲンマの家に寄ろうとしたら、素っ気ない顔でゲンマに呼び止められた。
「」
「何? 今からゲンマの家行くよ、一緒に帰ろ」
「いや、お前だけ行ってくれ」
「え、何で? どっか寄るとこあるの?」
「いや、まぁ……今日用事できたから、帰り遅くなるわ。悪いけど母さんにも伝えといてくれ」
「えっ!? 主役がいないでどうするの!?」
私は驚いて声をあげた。毎年のように、ゲンマの誕生日はおばさんに呼ばれて一緒にケーキを食べることが多い。昨日ゲンマにもそう伝えたのに、突然どうしたっていうの。
ゲンマはぎこちなく目を逸らして頭を掻いた。
「急だったから。悪い、頼んだ」
「えー何それ……別にいいけど」
「、あんまり突っ込んでやるにゃ」
「女にゃ」
突然両肩に乗ってきたアイとサクが私の耳元で囁いた。顔色を変えたところを見ると、ゲンマにも聞こえていたらしい。
私が素っ頓狂な声をあげたのと、ゲンマが耳まで真っ赤になるのとはほぼ同時だった。
「ゲっ、ゲンマ、彼女できたの!? 誰っ!?」
「お、お前ら余計なこと言うな!!」
「あいつにゃ。お前も知ってるにゃ、コマノってやつにゃ」
「コっ、コマノ!? マジで!?」
「やめろ!! おい、お前らやめろっ!!!」
こんなに赤くなって取り乱すゲンマ、初めて見るかも。なぜかこっちまでドキドキしてしまって、私は思わず両手で口元を覆った。
「ほんとに、コマノと付き合ってんの? え、昨日は今日のこと何も言ってなかったじゃん。ひょっとして……昨日から?」
「そうにゃ。忍具の補充に行った帰りに会ったにゃ」
「そのあと二人で居酒屋に行ったにゃ」
「お前ら何で見てんだよ!! マジでやめろ!! これ以上はよせ!!!」
この慌てぶりは、間違いない。
ゲンマは昨日からコマノと付き合っている。
ゲンマの、多分、初めての彼女だ。
自然と笑顔がこぼれて、私は耳まで真っ赤になったゲンマの顔をドキドキしながら眺めた。
「え、おめでとう! めちゃくちゃお似合い!! え、嬉しい! コマノならめちゃくちゃ応援する!! おめでとう、楽しんできてね!!」
「お、おう……」
私が手のひらを返したように意気揚々と背中を押したから、ゲンマもびっくりしたみたいでちょっと戸惑っていた。その背中を笑顔で見送って、私はゲンマが見えなくなるまで手を振った。
ゲンマの誕生日をゲンマと祝えないのはちょっと寂しいけど、お祝いは朝一番に言ったし、あとはおばさんのケーキを食べるだけだし、彼女ができたっていうなら仕方ない。
そりゃ誕生日くらい、そっちと過ごしたいよね。日中は修行があるし、夜くらいは二人きりで過ごしたいに決まってる。
コマノは美人だしスタイルも良いし大人っぽい。そして何より、芯がとても強い。優しくて強いゲンマと本当にお似合いだ。
コマノでよかった。多分知らない人だったら、私は素直におめでとうと言えなかったと思う。
ひとりで来た私を見て、ゲンマのおばさんは最初不思議そうな顔をしていたけど、すぐに察したみたいだった。どうやら昨日の帰宅から、ゲンマの様子がおかしかったらしい。
ゲンマって、そんなに分かりやすい人だったんだ。思わず笑ってしまった。
「あの子、真面目すぎるところあるからね。たまにはハメ外したほうがいいって思ってたの」
さすがおばさん。冷静。私はおばさんとケーキをつつきながら苦笑いした。
「でもには悪かったわね。せっかく誕生祝いに来てくれたのに」
「あ、いいのいいの。おばさんのケーキ食べに来ただけだから」
「正直で宜しい」
おばさんと顔を見合わせてひとしきり笑ったあと、私は胸を張って付け加えた。
「おばさん、安心して。ゲンマの彼女、めちゃくちゃ素敵な人だから。私も前にしんどかったときその人に助けてもらったんだ」
「そう、のお墨付きなら安心だわ。にはいないの? そういう人」
おばさんが穏やかに微笑みながらそう聞いてきて、私の頭に真っ先に浮かんだのはミナト先生だった。思わず顔が熱くなったけど、すぐにオビトの言葉を思い出して胸がぎゅっと苦しくなる。ミナト先生には奥さんがいるし、そうでなくても、こんな子どもなんか見てくれるはずがない。
母さんのことを思い出しても、ばあちゃんの過去を想像してみても。前向きな気持ちになんか、とてもなれなかった。
「……私は、そういうのいいかな。別に興味ないし、私は家の最後の一人だから、そのうちばあちゃんの決めた人と結婚するんだと思う。母さんもばあちゃんも、そうやって後継ぎを残してきたからね」
泣き言を言ったつもりはなかったのに、おばさんの顔を見ていたら、私は自分が恥ずかしくなった。優しい不知火家の人たちに、私はいつも気づかないうちに甘えてしまう。こんなこと言っても、困らせるだけなのに。
おばさんは少しだけ目を細めて、優しく微笑んだ。
「。私はあなたの家のことは分からないし、あなたが決めたことなら何も言うつもりはないわ。でももしも、あなたに本当に大切な人ができたら、無理にそれを手放す必要はないと思う」
「……おばさん」
「あなたたち忍びにとって、血統はもちろん大切なものでしょう。でも、忍びとしてじゃない、あなたにとって本当に大切なものが何なのか、それをいつも、忘れないでいてね」
私にとって、本当に大切なもの。
血統と相反することになったとしても、守りたい大切なもの。
仲間はもちろん大切だ。でもそれはきっと、私の血筋と矛盾するものではない。
の歴史やばあちゃんが止めたとしても、守りたい大切なものができたとしたら、そのとき自分はどんな道を選ぶのだろう。
「……ありがと、おばさん」
そんなこと、今の私に分かりっこない。でもいつか、向き合わなければならない日が来るのかもしれない。母さんが言っていたのは、ひょっとしてこのことだったのかもしれない。
ケーキの最後の一口は、味がよく分からなかった。今はただ、大切な幼なじみの恋路を邪魔せずに見守りたい。
幸せになってね、ゲンマ。