103.時間
ここ数か月、は澪様から千本の指導を受けるようになった。
澪様は完全に回復したわけではない。もう以前のように動くことはできないだろうと診断されているらしい。だが通常の用途ならいざ知らず、忍猫との連携技を指導できるのは澪様しかいない。それに以前のようには動けないとしても、二年目の中忍に指導をつけるくらい造作もないことらしい。俺たちのよく使う演習場に時折澪様が現れて、に時間を割いていた。
もっと早くに、そうしてくれていたら。
は無邪気に笑って明るく仲間たちと過ごしているが、昔からふとしたときに見せる陰がどうしようもなく俺を不安にさせた。いつか不意に消えてしまうのではないかと思わせるような儚さがあった。
家族の愛を信じられず、安心して帰れる家がないということがどれだけつらいことか、俺には分からない。だからこそ支えてやりたいと強く思った。
澪様が、もっと早くにに時間を割いてくれていたら。
それともこの時間は、霧での出来事があったからこそ作ることのできた時間なのかもしれない。上層部のことなんか俺には分からない。あの一件がなければ、澪様は今も本部に缶詰めだったのかもしれない。
分からない。そんなことは、誰にも分かるはずがない。
「ゲンマ」
そして澪様は時々、俺のところにもこうして声をかけるようになった。
「不知火の楊枝吹は緻密なチャクラコントロールの上に成り立っている。お前は充分にそれを鍛え上げているが、千本を使い負荷がかかることで微量だが無駄なチャクラが流れている」
何度か俺の千本吹を遠くから見ていただけ。それだけのことで悩みを言い当てられて俺は驚いた。ばあちゃんの教え方は下手くそだとが子どもの頃にぼやいていたことがあるが、とんでもない。チャクラコントロールのコツ、千本でバランスを取る方法、間合いの測り方。澪様の数回の指導で、俺は何年も悩んでいた千本の扱い方が遥かに楽になるのが分かった。
とんでもない人だった。
「ゲンマ、おばさんに誘われてるから明日またゲンマの家行くね」
「おう。無理しなくていいぞ」
「えーだっておばさんのケーキ食べたい」
明日は俺の十七回目の誕生日だ。母さんがいつものごとく張り切ってケーキを焼くつもりだが、正直まぁ、別にどうでもいい。思春期を経ても誕生日を家で過ごすだけでも感謝してほしいくらいだ。別に他に当てがあるわけでもないのだが。
と別れ、また忍具の補充に本部へ向かった。ここのところ千本吹の修行に明け暮れているので、どうしても補充ペースが早まる。ポーチの中身を確認して顔を上げると、久しぶりにコマノと一緒になった。
見開いたコマノの目は、赤く腫れ上がっていた。
「久しぶりだな……お前、顔、どうした」
コマノはハッとした様子で目尻を拭ったが、そんなことをしてももう遅い。彼女はごまかすように乾いた笑い方をして、忍具ポーチを腰のフックにつけた。
彼女が泣くのを見るのは、後方支援で死傷者を初めて目の当たりにしたあの頃以来だった。
「何でもない、何でもないよ。あ、そうだ。ゲンマ、明日誕生日だったわよね? ご飯くらい奢るよ、どう?」
コマノが俺の誕生日を覚えていたことにも驚いたし、飯の誘い方も唐突で、俺は不審に思った。だが、このまま放っておくのも後味が悪い。
「いいぜ。話くらい聞いてやるよ」
「……あんた、そんなに男前だった?」
「どうした? 泣きすぎて目でも霞んでんのか?」
「そうかも」
***
「もう、マジで、ありえない! あいつ! くそ、ばかみたい……」
「はいはい……あんまりヤケ起こすなよ」
俺の誕生祝いとは名ばかりの、コマノの独演会が始まった。聞けば一年半付き合った恋人が浮気していたらしい。それも理由が「お前が忙しそうで寂しかったから」だそうだ。
民間人と付き合えばそんなことは容易に想像できるだろうに、あの強気なコマノがぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。泣きながらキレていた。
「もう、ほんっとに、最低……浮かれてた自分がバカみたい……」
「男を見る目がなかったんだな。これもひとつ経験、だろ?」
「あんたってそんなにデリカシーなかったのね。失恋して泣いてる女の子に正論言ってもナンセンスなの。分かる?」
「正論って気づけるお前なら大丈夫だって。男なんてそいつだけじゃねぇんだから」
「あんたってほんっとにデリカシーない! 私にとってはね、たった一人の男だったの!」
じゃあどうしろってんだよ。じゃあ何で別れたんだよ。浮気するような男でもいいというならそいつの性癖は諦めるしかないし、諦められないのなら終わりにするしかない。それだけの話だろうに。
テーブルに運ばれてくる好物をしきりにつつきながら、コマノは涙ながらに男との思い出を語り続けた。出会いから、どこに出かけたやら何をくれたやら、こういうことを言ってくれたなど、何の足しにもならないことを。
そんなものでは寂しさは埋まらなかったから、そいつはお前がいるのに浮気なんかしたんだろう?
まったく。誕生日の前夜に、俺は一体何をやってるんだ?
「あーあ。男って何で浮気するんだろ」
「主語がデカすぎる」
「あんたは浮気とかしなさそうね。ていうか、興味ないでしょ。女なんて」
「さぁな?」
「何その意味深な言い方」
俺だって興味がないわけじゃない。ただ、そんなことに費やす時間があるなら少しでも修練を積みたい。女に割く時間があるなら仲間のために強くなりたい。それだけだ。
コマノはグラスの中に残った氷をストローの先でつつきながら、淡く彩られた瞼を伏せた。
「付き合ったのがあんたみたいな男なら、こんな思い、しなくて済んだのかなぁ」
俺は一瞬ドキリと高鳴った鼓動には気づかない振りをした。手元の煮物をつまみながら、素っ気ない声を出す。
「アホか。大体、年上が好きって言ってただろ」
「そんなの好みの問題でしょ。現実は別」
コマノはさばさばとそう言って、再び男の話題へと戻っていった。
どうせ戻れやしないと分かっていて、抱えきれない感情を吐き出そうとしている。もしかしてあのときああしていればと未練を覚えながらも、それでも前を向いて歩き出そうとしている。
コマノはそれができる。意外なほど涙を見せたとしても、それは前進するために必要な発散だと自分で分かっている。
が、何も俺に発散することないだろう。
結局店を出るまでコマノが話したことと言えば、男の話が八割、一割が自分のこと、残り一割が俺やの話だった。女子会じゃねぇんだよ。まぁ、おとなしく付き合う俺も俺だが。
帰り道を並んで歩きながら、ようやく泣き止んだコマノは目を細めて夜空を仰ぎ見た。
「は好きな人とかいないの?」
「知らねぇよ。何で俺に聞く」
「あんたたちめちゃくちゃ仲良いでしょ。とアカデミーで同期だったって男の子とこないだ一緒になったけど、のこと気にしてたわよ。でもあんたが怖くて近づけないって言ってた。なに牽制してんのよ」
「はぁ?」
何だよそれ。牽制も何も、俺はにとってただの幼なじみで、俺の存在程度で怯むくらいの気持ちならどうせ大した感情じゃない。どこの誰だか知らないが、今やっと忍猫使いとして一人前になろうと踏ん張っているの邪魔だけはしないでほしい。
俺の顔を横目に見て、コマノは小さく吹き出した。
「ほんと、あんたは顔が怖いのよ。のこととなると余計に」
「そうかよ。悪かったな」
まるで俺がシスコンであるかのような言い草だ。思わず語気が強まってしまった俺の眉間を、コマノは冷たい指先でそっと撫でた。
その瞬間、肌がぞくりと粟立つのが分かった。
コマノの穏やかな眼差しが、下から真っ直ぐに俺を覗き込む。俺は咥えた千本の先を少し上に上げた。
「妹みたいに思ってる子をそんなに大事にできるなんて羨ましい。今度付き合うなら、ゲンマみたいな男がいい」
「……お前、相当疲れてんな」
「かもね。でも私、アカデミーの頃はあんたのこと好きだったのよ?」
俺は顔にこもる熱をやり過ごすために、小さく息を吐く。アカデミーの頃を思い出してみても、彼女はあくまでクラスメイトの一人で、彼女にとっての俺もまたそうだった――はずだ。
彼女の告白に、大した意味はない。彼女は失恋したばかりで傷ついているだけだ。そう、俺は自分に言い聞かせた。
「……あんま、いい加減なこと言うなよ。俺じゃなかったら本気にすんぞ」
「あんたらしいわね。本気にしていいのに」
「お前がそんな軽い女だと思ってなかったわ」
「そうやって決めつけるのはやめて。あんた色恋とか興味なさそうだったし、私だって寂しいのよ。好きって言ってくれる男と付き合って何が悪いの」
コマノは少し強い口調でそう言って、俺の眉間を撫でる指先を滑らせた。そのまま俺の口から千本を抜き取って、こちらの両肩を押さえながら軽く背伸びする。
触れそうなくらい近づいてきたコマノの唇からは、仄かに甘い香りが漂った。
「私じゃ、誕生日プレゼントにはならない?」