「シリウス」

開いた窓から身を乗り出し、エプロン姿の彼女は庭先でせっせと作業をしている男に声をかけた。年の頃、二十歳前後。正確には彼女とまったくの同学年だが、大きな眼をした東洋系の彼女自身は、人より身体も一回りほど小さく、実年齢よりいささか年下に見られることが多くあった。

「そろそろお昼にしましょう」
「んー、あー、もうちょっと。あ、こら待ちやがれ!」

片手を挙げてこちらに応じた彼が追いかけていくのは、庭に作った小さな畑を縦横無尽に駆けずり回る庭小人。捕まえた一匹のそれを指先で回してまるで砲丸投げのように遠くまで放り投げる彼の姿に、彼女はくすりと笑って窓枠から少し身体を引いた。

「あと五分で来ないと勝手に食べちゃうから」
「五分もあれば余裕だって」
「手を洗わない悪い子にはご飯を食べる資格はありません」
「分かった、分かった。すぐ行くから」

お手上げ、といわんばかりに両手を挙げて、彼がしゃがみ込んでいた地面から腰を上げる。肘まで捲り上げた袖をさらに上へと引っ張りながらこちらに向かって歩き出す夫の姿を確認して、彼女は沸き上がった紅茶を温めたカップに注ぐため、キッチンへと戻った。

こんな生活が、当たり前のように続くと思い込んでいたんだ。

NORTH WEST LIFE

不死鳥の騎士団

ノースウェスト高地は海に面した穏やかな気候を享受している。そこには小さなマグルの町があり、彼らはそこから少しだけ離れた小高い丘の上に住んでいた。潮風に映える、小さな白い壁の家。設計したのはそこに住む若い夫婦の新妻、・ブラックの親しい友人だった。夫の名はシリウス・ブラック。二人はホグワーツ魔法魔術学校の同期であり、卒業後に結婚してこの北の地へと移ってきた。

彼女は卒業後、すぐにロンドンの楽譜専門店で働くようになった。ダイアゴン横丁の、ほとんど滅多に人の通らない寂れた一角。その店の噂を聞きつけた客でなければまず見つけることのできないであろう、そうしたところ。だがその隠れ家的な雰囲気が、彼女は学生時代から気に入っていた。
一方、夫のシリウス・ブラックはというと、同じくロンドンに本部を構える遺跡調査団のメンバーとして働いていた。当初は世界中の様々な遺跡へ実際に調査に向かう、実地調査班への配属を希望していたのだが、彼女との結婚を決めてから、やはり思い直して本部での鑑定作業への希望シートを提出した。

贅沢をするつもりはなかったが、それなりに裕福な暮らしをしていたのだと思う。シリウスは子供のいなかった叔父の遺産を受け継いで働かずとも生きていけるほどの私産を持っていたし、都会と違ってこちらは物価もそれほど高くない。彼が仕事を休みたいと言い出したのは、学生時代からの親友、ジェームズ・ポッターが会社に辞表を提出してきたという話を聞いてからだった。

「『不死鳥の騎士団』    ダンブルドアが、『例のあの人』に対抗するために設立した、秘密結社だ」

が紅茶を二人分持って戻った居間で。彼はちらりとこちらを見て、一瞬だけ躊躇したようだったが。それすらも感じさせないほど自然に、そのあとの言葉を続けた。

「僕はそれに加わることにした。僕だけじゃない、リリーも。ダンブルドアに、協力することにした」
「ま……待てよ。いきなり、そんなこと」
「前から考えてたんだ。ずいぶん、悩んだ。僕には家族がいる。愛する、リリーが。もしも……もしも彼女を、護れなかったらって」

でもね。そう言ってジェームズは、学生時代から時折見せていた、あの力強い眼差しで。

「だからこそ、戦うんだ。このまま奴らをのさばらせていたら、この国はお仕舞いだ。僕はリリーを愛してる。彼女との子供だって欲しい。でも、もしも運良く子供を授かったとして、そのときまだ、奴らのせいでこの国に暗い影が差したままだったら」

は食卓に向かい合って座る二人の前にカップを置いて。その場を立ち去ろうか否か、迷った。だが結局、そこから動くことはできずに立ち尽くしたまま彼らのやり取りを見ていた。

「僕はそんなの、ごめんだね。僕らの子供が生まれてくれる前には、平和な国になっていてほしい。僕がそうしたいんだ。だから戦うことにした。家族のためにこそ、僕は『騎士団』に参加する」

ジェームズはありがとうを言って、の淹れた紅茶に口をつけた。レモンティー。ジェームズの、好きな。彼は微かに頬を緩めて、すぐにカップをテーブルに戻した。

    それだけ、伝えたかったんだ。もちろん、君たちにも加わってほしいなんて言いに来たわけじゃない。君たちのことは、君たち家族で考えてくれ。だけど僕らは、『騎士団』の任務に専念することにした。平和な時代が訪れたら、そのときにまた仕事を探すよ。、紅茶、ごちそうさま」
その、数日後。ノースウェストに現れたアルバス・ダンブルドアは、『不死鳥の騎士団』について、たちに語って聞かせた。『例のあの人』と呼ばれる魔法使いと、彼に仕える闇の魔法使いたちに対抗するため、ダンブルドアが旗揚げした組織。すでに十人以上が有志として集まっているという。その中には、彼らの親友、ポッター夫妻、それに知ったホグワーツ卒業生の名前も何人か含まれていた。

「もちろん、無理強いをするつもりはない。どちら側につくか(、、、、、、、、)……その明確な意思を表明することになる。今や誰も安全などとはいえぬが、騎士団に加わることでよりその危険度は上がるやもしれぬ。それでも、もしも……手を貸してくれる気があれば」

君たちを、信頼しての頼みじゃ。ダンブルドアは、そう、ひっそりと言い残して。その日は、そのまま去っていった。
彼が仕事を休みたいと言い出したのは、翌日の朝。二人で静かに食卓を囲んでいるときのこと。

「俺    しばらく、休職しようと思うんだ」

は驚かなかった。彼もまた、ジェームズと同じ道を選ぶだろうということは容易に予測できたからだ。彼がこの一年ですっかり虜になってしまった採掘物の鑑定と完全には縁を切ってしまわないだろうということも。

「それで……もし、お前が許してくれるなら……」
「許すとか、許さないとか。そういう話じゃないでしょう?」

怒るでもなく、呆れるでもなく。ゆっくりと唇を緩めて、彼女はスプーンを皿の上に置いた。椅子にきちんと座りなおし、正面のシリウスと向き合う。彼もまた真面目な顔をして、あらたまった様子で姿勢を正した。

「……ジェームズの言ったこと、覚えてる」
「ん?」
「自分の子供が生まれるときには、平和な国にしていたいって。その気持ちは、私だって同じだもの。あなたもそうでしょう?シリウス」

そして彼が口を開くよりも先に、両手を伸ばしてテーブル越しに相手の手を掴んだ。冷たい、でも、あったかい手。

「危険なことはしたくないし、あなたに危険なことはしてほしくない。でも私は、いつかあなたとの元気な子供を産みたい。その子が生まれてくれるこの世界は、平和なところであってほしいの」

戸惑って揺らぐ彼の瞳を覗き込み、その手を、きつく、握る。

「一緒に戦ってくれる?シリウス」

もどかしそうに目を細めたシリウスが、やがて小さく苦笑いし、そっと、口を開いた。

「……俺の台詞だっての」
「いいでしょ、別に。早い者勝ち」
「俺が何日も前からずっと考えてたのに」
「はやいものがちー」
「分かった、分かった」

顔を見合わせ、ひとしきり、くすくすと笑い合って。
ふいに笑みを消したシリウスが、彼女の腕を引いてテーブル越しにその背を強く抱き寄せた。危うく手元の皿を引っ繰り返しそうになるも、なんとか空いた手を浮かせてそれを回避する。きょとんと瞬きするの耳元で、シリウスは押し殺した声を発した。後になってそれは、単に震える喉を隠そうとしただけかもしれないと気付いたが。どのみち肌が触れ合ったこの状態で、隠しきれるはずもない。

「一つだけ……約束してくれ」
「な、なに?」
「……絶対、無事でいること。ヤバイと思ったら何を置いても逃げること。お前が怪我でもしたら二度と任務には行かせない」
「そんなの、約束できない」

困った顔で答えるとこちらの肩から顔を上げたシリウスがきつく眉根を寄せた。そのしわを指先で軽く押しながら、

「約束……は、できないけど。だって命を懸けてるのは他の人たちも同じでしょう?でも……『ヤバイ』と思ったら何を置いても逃げること。これだけは、何があっても守ることにする。それでいい?」

彼はまだ怖い顔でじっとこちらを睨んでいたが、やがて観念したように大きく息をついて、囁いた。

「……分かった。何がなんでもそれだけは守れ」
「うん、分かった。それじゃあ、あなたも約束して。『ヤバイ』と思ったら何を置いても逃げること。無茶をしないこと。一人で勝手に動かないこと。それから……」
「おいおい、お前だけ多すぎだろ」
「いいの。それから、もう一つ」

ぴしゃりと相手の言葉を遮って、告げる。

「……私をひとりに、しないで」

不意に訪れた静寂が、細波のように押し寄せては、退いていく。石のように固まった彼の表情が、何を契機にというわけでもない。涙に揺れて、もう一度彼女の身体をきつく抱き寄せた。
シリウスの震えが、そのまま薄い衣服だけを通して直接伝わってくる。彼の温もりも、速まる鼓動も。何もかも。

「そんなこと……言わせるな」
「言ってくれなきゃ、分からない」
「……お前は……俺は……お前は、俺の……」

涙に掠れた彼の声が。鼓膜のすぐ隣で、微かに揺れた気がした。強く掴まれた肩に、少しだけ痛みが刻まれて、静かに脈打つ。
そして彼女は、確かに愛する人の答えを聞いた。

「お前だけは……何があっても、離さない」
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(07.12.18)
(08.07.05 一部修正)