日本での旅を終え、三ヶ月が過ぎた。
今、・はひとり、マグルの行き交う大通りにたたずんでいる。
否、『ひとり』というのは語弊がある。ついでに言えば、『・が』というのも、いささか誤解を生むだろう。彼女は見も知らないマグル(しかも男)の姿を借りているし、傍らには現在透明になっている、屋敷しもべがひとり控えている
はずである。
誰にも聞き取れない程度の声量で、はささやく。
「闇祓いはいないわね?」
「はい、異常はございません」
普段は耳につくキーキー声で話してくるカーラも、今はだけに聞こえる落ち着いた調子で答えた。いつもこれくらいの大きさなら良いのにと願いつつ、は慣れない革靴の底を踏みしめた。
「行くわよ」
「かしこまりました」
念には念を入れ、外では彼女の名前を呼ばないようにと言い聞かせてある。
忙しなく行き交うマグルの間をすり抜けながら、・は服の上から内ポケットの硬い鏡を握り締めた。
Repentance comes too late
その決断を
夢見と呼ばれ続ければ、当然、『夢に』予言を見るのだと思い込むのも道理だろう。
だが、違った。それは突然の脳裏に閃いてはじけた。
ひとりの厨房で夕食を食べていたとき、誰もいないはずの倉庫で物音を聞いた気がしたのだ。
カーラかもしれない。だが、そうではないような、そんな予感がした。しばしの間、耳をすませ
意を決して、そっと腰を上げる。
広い厨房の奥に、食料庫への重厚な扉がある。その脇に音を立てないようにして滑り込み、は神経を研ぎ澄ませた。
声がする。だが、それは普通でない、まるで頭蓋骨の内側から響くかのような。
気味の悪い感覚に目眩を覚えながら、それでも、歯を食いしばって耐える。これは、一体……。
「エバン、の様子はどうだ」
「ええ、相変わらず。例の鏡はここのところ持ち歩いているようですが」
ジェネローサス? 彼はしばらく顔を見せないと、そう言っていたはずだが。
「食事は? どうせろくに摂ってないんだろう」
「その点はご心配なく。最低限のものはカーラに言って摂らせています。俺の言うことはどうせ聞かないんでね。日本から戻ってから、あいつ、俺らのことはまるで人じゃないように見てますから」
「たかだかマグルのジジイひとり殺したくらいで……」
やれやれと息をついたらしいジェネローサスに、歯噛みする。『たかだが、マグルのジジイひとり』……こいつらにとって、人を殺すことなど息をすることと同義でしかないのだ。そうやって、フィディアスのことも
。
ジェネローサスは扉の向こうで、話題を次へと移したようだった。
「ドロホフがしくじった。プレウェット兄弟には顔も見られてる、このまま放っておくのは危険だ」
「プレウェット兄弟……厄介ですね。ドロホフひとりでは」
「だからお前にも手を貸してほしい、エバン。事は急を要する、可能なら、今夜にでも片を付ける
」
今夜
速まる鼓動に懐の鏡を握り締めたの背後で、突然別の気配が動いた。
振り向いたは、目の前にたたずむ男の姿を見て驚愕した。たった今、倉庫で話していたはずのエバン・ロジエールが、厨房から現れたのだ。
「……いつの間に……」
「は? どうした、そんな顔して」
「……だ、だって」
怪訝な顔をするロジエールと、食料庫の扉とを交互に見比べて。勢いよく傍らのドアを開けたは、真っ暗な倉庫の中に誰もいないことを知って愕然とした。うそだ、だってたった今まで、ジェネローサスとロジエールが話をしていたではないか。
「だって、今、ジェネローサスと……」
「は? あの人は今、国外にいる。しばらく来ないと言ってただろう」
「じゃあ、今聞こえたのは……今夜プレウェット兄弟を片付けるって
」
こちらの言葉を聞いて。今度はロジエールが目を見開く番だった。信じられないものでも見るように、眉根を寄せ、近付いてくる。思わず後退したが、すぐに壁際へと追い詰められて息を呑んだ。
「何を聞いた」
「……何って……」
「ここで何を聞いた。すべて話せ。すべて」
目の前まで、迫られて。場違いに思い出したのは、ホグワーツでこの男に同じような状況に追い込まれたことだった。
だが、あのときとは。すべてが変わってしまった。
瞼を伏せて、絞り出す。
「……ドロホフが、プレウェット兄弟に顔を見られたと……だから今夜にでも、あんたの手も借りて……片付ける、と……」
ロジエールはしばし言葉を失って立ち尽くし
厨房の長机に戻ると、カーラを呼んで何かを取ってこさせたようだった。
日刊予言者新聞。ロジエール邸に閉じ込められてからというもの、一度も見たことがなかった。その何ページかを捲り、ロジエールはテーブルの上へそれを広げて投げた。
促されるままに、躊躇いながらも覗き込む。進んで見たくなどなかった。この国で何が起こっているのか、現実を目の当たりにすることが怖かった。
だが、広げられた片隅に掲載された記事を見て、思わず声をあげる。
「……こ、これ……」
「一週間前だ。あの夜、確かにジェネローサスはここに来た」
それが些事だとでも言うように。
殺害、失踪、拷問
目を背けたくなるような記事の、ほんの一つに過ぎない。そこにはギデオン・プレウェット、ファビアン・プレウェットが何者かに殺害されたと報じられていた。
ロジエールはすぐさま新聞を片付け、そしてじっと、感情の宿らない眼差しでこちらを見る。
「
今あんたが聞いたのは、
一週間前の俺たちの話ということだ」
しばらく顔は見せないと話していたジェネローサスが、その翌朝にはロジエール邸に到着した。張り詰めた空気の厨房で長机を挟んで向かい合い、腕組みしたロジエールが壁際で待機する。
は何も言わず、ただ相手が切り出すのを待っていた。
分かっていた。聞こえるはずのない声が聞こえる
それは不吉な、気が触れる前触れだと
あの日、
彼が、教えてくれたから。
けれどもジェネローサスが慎重に提案したのは、ほぼ軟禁状態のが積極的に外に出ることだった。
「もちろん一人ではない。俺かエバン、もしくはカーラと」
「……どういうこと?」
「あの鏡を得たことで君の力が開花したとして、過去もしくは未来が視えるとしたら、こんなに我々に有益なことはない。だがまだ現時点では、不確かなことだ。帝王にお伝えするのは早計、しかし急ぐ必要がある」
ジェネローサスは話している間、一度もこちらから目を逸らさなかったが。その瞳に、これまでなかったものが宿るのをは感じていた。ふと顔を上げたその先で、ロジエールが視線を外す。もまた、すぐにジェネローサスへと向き直った。
「外へ出て多くのものを見てくるといい。その中で『今』以外の何かを見たり聞いたりしたときは、その感覚を覚えておけ。君の能力は必ず我々の役に立つ」
「……勝手にそんなこと、決めていいわけ? わたしが外へ出ていることが、帝王に知れたら」
「もちろん、リスクはある。だが恐れている暇はない。君が『今』以外を視ることができると証明できれば、そしてその能力を自在に扱うことができるようになれば、省の動きを読むことすら可能だ。
これはかなり、我々の有利に働く」
「そんなこと言っても……一体、どこに行けばいいか」
「どこでもいいさ。決められないなら俺たちの提案に従ってくれればいい。ただ、物見遊山でないことだけは覚えておいてくれ。君の目的は
」
「
忘れたとでも思うの?」
意識よりも早く、身体が動いていた。手首まであった袖をむしり、前腕に刻まれた毒々しい髑髏を突きつける。ジェネローサスは軽く片眉を上げただけだった。
何のために、こんなものを引き受けたのか。時折、焼けるような痛みにさいなまれる。これは招集の合図だと教えられたが、それには従わなくていいと指示されている。
わたしはわたしの仕事をしろと。
沸き立つ怒りは、目の前の男へのものか、それとも
。
「やってやるわ、何だって」
吐き捨てて、それまで沈黙を保っていたロジエールを振り返り、睨みつける。
「覚悟が足りなかった。そう言ったわね。『たかが、マグルのジジイひとり殺したくらいで』」
そして、ジェネローサスへ。彼はそこで初めて、ばつが悪そうに視線を外して押し黙った。
「あんたたちがこれまでどれだけの人間を殺したか、痛めつけてきたかわたしは知らない。この半年、ずっとここに閉じこもっていたものね? ええ、ただ逃げているだけだった。
でもそれももうおしまい。わたしはわたしの役目を果たす」
袖を直し、呆けたように顔を上げたジェネローサスへとは淡々と告げる。
「ポリジュース薬を分けて、ジェネローサス。すぐに出かけるわ」